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九十八  福澤先生礼讃(上巻334頁)

 私は明治四十五(1912)年に実業界を引退し、閑雲野鶴の(注・束縛のない悠々自適な)身となった。そのときに、福澤先生の伝記を書いてみようかと思い、その後約一年間にわたり、先生と生前に交際のあった大隈重信、山本権兵衛、後藤新平、北里柴三郎、森村市左衛門、足立寛、中村道太、犬養毅、尾崎行雄、鎌田栄吉ら数十人を訪問し、先生に関する談話の聞書きを行った。これはかなりの大部な記録となったので、後年、福澤諭吉伝の著者である石河幹明氏にも見せて参考にしてもらった。今回は、その談話記録の中から、全体として福澤先生を礼讃した二、三の例をピックアップ(原文「摘録」)してみる。(注・読みやすいように、一部の表現をなおした)

犬養毅氏談
 「福澤先生はもともと自由主義の人で、一切の差別をしない。爵位や俸禄、階級、勲位を持たない。あるときなどは、席次の上下ができないように、客室に床の間を作らなかったこともある。
 慶應義塾において一目置かれ重んじられるのは、学問、知識、人格であり、役人の肩書などは、尊敬されるというよりはむしろ卑しまれるくらいだった。

 しかし明治十(1877)年の西南戦争により日本の封建的なやり方が打破されると先生は考えを改め、交詢社を作るなどして、さかんに実業論を唱えるようになった。それを見て世間には拝金宗だと言う者もあった。
 ところが晩年には、ふたたび穏健な考えに戻り、あの「修身要領」を作られたりした。これは、釈迦が最初に出山(注・釈迦が修行を終え雪山をおりたこと)して華厳を説き、その後世間に触れて小乗を説き、最後には法華、涅槃を説いたのと同様である。釈迦における法華と涅槃が、福澤先生にとっての独立自尊主義にあたる。だから吾輩は、三田山の学風が福澤先生の功績を伝え、ながくその特色を失わないようにと望んでいる。」
 

尾崎行雄氏談
 「吾輩は明治七(1874)年に慶應義塾に入門し、あるとき教授のひとりが癪にさわったので翌年にとうとう退学してしまい、福澤先生に対しても、おうおうにして反抗的な態度を取った。
 しかし先生は私を見捨てることはなく、陰にまわって家族の心配までしてくださった。そういう先生の気質を考えてみると、人の感謝するようなことは表面にあらわさず、いわゆる陰徳を施すのを常としたのである。
 あの榎本武揚を助けたり、朝鮮の金玉均を助けたり(注・一例として20「金玉均庇護」を参照のこと)して、なにも知らないような顔をしておられるのがそれである。
 先生が亡くなられてから考えてみると、明治の社会に、先生ほど度量がありすべてを兼ね備えていた人はいなかったように思う。 世の中ではとかく西郷隆盛を大人物を言うが、それは一面的なことで、先生のように広くなにごとにも行き届いた人はほかに例がないと思う。仮に今、明治の大人物を有形的、無形的に粉々に砕いて、その長所短所をまぜこぜにして団子を作ってみたら、福澤先生の団子が、誰のよりもはるかに大きなものになると思う。」


鎌田栄吉氏談
 「維新前後の政治家に『西洋事情』がどれほど大きな効果を及ぼしたかということを考えてみると、すぐに福澤先生の偉大さがわかる。
 勝安房(注・かつあわ。勝海舟のこと)が、維新前に西洋から帰ってきて幕府の老中からその事情をきかれたときの答えが、西洋の事情はちょっと見聞きしたってわかるものではない、まず私の見たところで、ただひとつ日本と西洋で違っているのは、西洋では利口な人が上に立って政治を執っているということであります、というものだったので、馬鹿なことを言うなと、老中からひどく叱られたという奇談がある。もちろんこれは、勝が老中を風刺したものであろうが、しかし実際、西洋の事情に通じて、これを書物に書き表すことができたのは当時、福澤先生以外にはいなかったのである。
 維新前後に西洋に行きいろいろな研究をしてきた人はいるが、それはだいたいがひとつの局面のことである。たとえは中村敬宇が書いたものはと言えば、自助論のような一部のものでしかない。銀行、会社、郵便、学校、政治、軍事、暦、その他全般のことを勉強して大要を教え広めるためには非凡な知識が必要であり、その点が他の誰にも真似できない福澤先生の偉大さなのだと思う。
 また福澤先生は、最も自分の力が発揮できる場所において一生働いたということが偉い。先生は決して政治家ではない。人柄が君子なので、嘘をついたり策略を用いたりすることが絶対にできない。学者として思い切った説を吐き、いつも世の中よりも一歩進んだところから天下に警鐘を鳴らし、ひとびとを覚醒させるのが先生の得意とするところである。
 先生は晩年に自伝を書き、病後には『修身要領』をまとめ、最後まで完全に学者としての生涯を全うされた。それは、いわゆる適材適所ということで、非常に幸運な人であったと思う。」


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