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九十七  大隈の福澤評(上巻331頁)

 福澤先生は稀代の偉人で稀有の時代に生まれ合わせ、しかもよく自分を知り、その時代に適応しようとして最善の働きを尽くされた。このことは新しい日本文明にとり大いなる効果をもたらした。
 先生の功績には慶應義塾、交詢社、時事新報を創立したことをもちろん数える必要があるが、わが国に西洋文明を輸入した大恩人としての業績を長く礼讃しなくてはならないだろう。
 弘法大師が唐の仏教文明を輸入したのと同様に、先生は日本開国した最初の時期に、まったく流儀の違う西洋の文明、思想、文化、社会のしくみを研究し、ほどよくかみ砕き、わが国民にもわかりやすいように「西洋事情」や「学問のすゝめ」などに著述し、当時の文明、思想の問屋となって新しい為政者にも模範を示し方針を与えた。その努力はながく記憶されなければならない。
 先生の没後、私は先輩諸氏より先生の偉業について直接の談話を聴き取った。順番は前後するが、まずは大正はじめに私が早稲田に大隈侯爵を訪ねたときの話を摘録することにしよう。(注・句点がないところを切るなどして、わかりやすい表現になおした)

「福澤先生は親切で、かつ注意深い人で、吾輩などの乱暴なやり口を危険に思って、たびたび忠告してくださったものだった。しかし明治十四年の国会開設論については、いつもと違って非常な勇気をもって賛成された。
 木戸が明治十年に死んで、大久保がその翌年に世を去って、あとは吾輩がその後を引き受けたようなありさまになってしまった。さて政治上の改革をやらなくてはならないので、吾輩は福澤先生と協議し、伊藤、井上の二人を加えて、まずは世論の力で、当時政府の中でがんばっていた頑固な連中の矛先を挫き、いよいよ国会を開設するという相談になった。これには有栖川宮(注・熾仁親王か?)殿下、岩倉、三条公爵もみな賛成し、実行に移すことになった。

 しかし明治十四(1881)年の夏に東北に御巡幸があって、吾輩も北海道まで随行(原文「供奉」)し、帰り道に福島に到着したときに、東京からの連絡を受けた。それによると、吾輩が、福澤と謀反を企てたということで、薩摩の連中が怒り出し、伊藤、井上は腰を抜かして手を引いてしまい、岩倉もへこたれてしまったというのである。それで吾輩がひとりで責任を背負うことになってしまったが、政府の連中は、なにか吾輩の落ち度を見つけて罪に陥れようとして、三井銀行に行って帳簿を調べたり、岩崎の帳簿を調べたりした。しかし、吾輩には一銭一厘の関係もなく、かえって当時の政府の役人の貸借が明からさまになってしまい、おかげで吾輩は、完全に潔白を証明され、ただ職をやめるだけにとどまったのである。 

 福澤先生は、父君もまた漢学者で、若いころには漢学で頭脳を作り上げた人であったから、世間が言うような唯物主義者ではない。むしろ唯心論者として、立派に世に立った人であるといえる。しかしその後十分に蘭学を勉強し、万延元(1860)年には木村摂津守らとアメリカへ、そして文久元(1861)年にはヨーロッパへも行った。このときは、1884年のフランス大革命のとき(注・原文のままの年を記す1848年の二月革命のことであろう)で、ミルの自由論、ベンサムの功利主義といったものが流行しており、全土に革命思想がいきわたっていた。このような自由な議論が盛んにおこなわれていたところに先生は飛び込み、現状を目撃したのだから、日本の漢学者の議論が実にばからしいものだと思い、根本的に改革しなければならないと気づいたのであろう。
 いつだったか先生は吾輩に向かって、俺は議論によって、なにからなにまで古い物を一掃しつくしてみせる。その後の建設をするのは政治家の仕事で、それはあなたたちにやってもらうしかないので、とにかく建設は誰かに頼むとして、俺は、破壊専門で行く、と言われたことがあった。

 それが、あの楠公権助論などになって、世間の人の考えを刺激し、ずいぶんと大きな敵を作ったりもした。しかしそれに動じることがなかったのも、福澤先生ならではだった。しかしながら、功利主義一点張りではなく、漢学の素養があって忠孝仁義道徳といったことにも十分に考えがある人だったので、世の中が落ち着くにしたがい、もともとの穏健な色合いの思想に立ち戻られたのである。」


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