九十五
尾崎紅葉の述懐(上巻324頁)
私が三井呉服店の改革を始めて約三年のうちに、各部署の施設が西洋の百貨店にやや近づいてきた。まだもちろん百貨を扱うには至っていなかったが準備はようやく整ってきた。そこで今度は営業宣伝の方面に力を入れることになり、明治三十一(1898)年末に「花衣」という冊子を発行することになった。
はじめて発行する冊子なので内容を豊富にしたいと思い、私自身も「模様の説」という一篇を執筆した。また大槻如電翁作の「江戸の風俗衣服のうつりかはり」という、百二十ページにわたる長編を掲載した。
さらに尾崎紅葉氏に依頼して「むそう裏」という短編小説を執筆してもらった。この小説は、紅葉とその弟子の白峰(注・中山白峰)という人との合作で、上中下の三篇に分かれ、紳士、貴女、芸者など各種の人物の衣服模様や風俗を描写するというのが主題だった。
その後も紅葉は私の依頼に応じて一、二回小説を寄稿した。またあるときは、巻頭を飾るために自筆で次のような一句を題したこともあった。
この巻のはじめに物書けとありけるに、唯凉しからば題意にもたがはざらんとて
青すだれちよと恋草の透模様 紅葉山人
紅葉は生粋の江戸っ子だった。一種の奇人で、幇間の真似をしたり、緋縮緬の羽織を着て回向院の相撲場をうろついたり、そうかと思うと提物(注・さげもの。根付、印籠など)の象牙彫りに非常な天才を見せたりした。
彼は尾崎谷斎坊のせがれとして生まれ、親父の天才と江戸っ子気質を受け継ぎおもしろい気風を持った人だったから、来訪するたびに長時間おしゃべりをしたものだ。
あるとき彼は私に、文士の生活の困難な事情を訴えたことがある。「日中は家の中がザワザワしているので、夜更けに人の寝静まったころに起き出して執筆することにしている。その不摂生の結果、とうとう胃腸病にかかってしまい、消化不良のため、ご覧のように顔色もまったくすぐれないのである」と。そのころ紅葉は、あの金色夜叉の執筆に没頭しておられたころのようで、なるほど目の縁が黒ずみ病が悪化しているようすだった。
さらに言葉を継ぎ、「僕などはそれでもまだ上等の部類であるが、弟子などは、出版社から前借りをし、その金額が三百円にもなると、もやは彼らに首根っこを捕まえられたも同然で、一生うだつのあがらない境遇に陥ってしまう次第である、日本でも文士の報酬がもう少し向上して、力作を一篇執筆すれば一年くらいは遊んでいられるようにならなければ、われわれの境遇は哀れなものだ」と述懐された。これには、いかにも同情にたえないものがあった。
岩下清周の晴着(上巻326頁)
私は少年時代に田舎の呉服店に丁稚奉公をしていたことがあるので、衣服についてはすこしばかりの経験がないこともなかったが、いよいよ三井呉服店の理事になり営業全般を指揮する立場になったときにいちばん困ったのは、やはり衣服のことだったのである。
私が呉服店の改革を始めてから一、二年たったころだった。ある日、岩下清周氏が来店し、「君は非常に呉服店を改革したそうだから、僕は今日、君に向かってお祝いのために、衣服一組を注文しよう。金はどれほどかかってもよろしい。模様や品柄も一切君の思う通りでいいから、さっそくこしらえてもらいたい。」ということであった。このような大任を負うことにはとても閉口したが、ここは商売柄、二つ返事で引き受けることにした。
そのころの着物は、三枚重ねが流行っていた。そこで、桐生の最高級の御召を三つ重ねにし、袴には最上の茶宇(注・茶宇じま。袴地にする薄地の絹織物)に、甲斐絹の裏をつけ、羽織には最上の長浜縮緬の黒紋付に、緞子裏をつけるという、費用おかまいなしの上等づくめ、文句なく当世随一の出来のものをこしらえて鼻高々で岩下家に届けた。
ところが数日後に、ある茶屋で岩下氏に会ったところ、氏は三枚重ねのうちの上衣一枚だけしか着ていない。不審に思い詰問してみると氏はおおいに不満を述べた。「君がせっかく作ってくれたものだが、目方が重くって、全部あれを着ていては、肩が張って身動きもできなくて、堪えきれなくなって一枚脱ぎ、二枚脱ぎ、この通り、一枚になってしまったのだ」と言われてしまった。
これには私も困り果てた。ただ無闇に上等上等とばかり考えて、衣服の重量に注意を払わなかったのは、新米の呉服屋の失敗だったと兜を脱いで降参するしかなかった。学卒あがりが呉服屋の番頭に早変わりして、大改革をしようとして、ときにはこういう頓珍漢を演じることになり、われながら苦笑を禁じ得なかった。この失敗は私の大きな秘密で、今日まで誰にももらしたことがなかったが、岩下氏もすでに他界され私も七十を超えたので、もう時効であろうと思い今回はじめて白状する次第である。
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