九十四
新旧思想の過渡(上巻320頁)
私の三井呉服店改革は単にこの一店だけのものにとどまらず、一般小売店に対しても新しい方式の模範を示そうとするものだった。従って、その方法にはかなり奇抜なものも含まれていた。
これに先立ち私がこの仕事を引き受けたようと思ったとき、長年の習慣を改めることは、なかなか簡単なことではあるまいと思った。改革が進むにつれ必ず苦情が百出するだろうから、あらかじめ承知しておいてもらいたいと三井の主人や重役たちに伝え、ついては三越などというあいまいな名義ではなく、はっきりと三井呉服店と改称し、三井が率先して小売業の改革を断行するという意気込みを示すべきであろうと主張した。こうして、即時に「三井呉服店」と名称を変更し、丸越の商標を、丸に井桁三に改め、はじめから思い切った改革に取り掛かった。
この改革は、これまでなんの経験も持たないおおぜいの学生あがりが、年季奉公出身の番頭、小僧と一緒になって仕事を進めるのだから、当然のことながら相性がよいわけはなかった。東京高等商業学校出身の滝沢吉三郎氏が主任になり帳簿の改正を行うことになったが、そのひとつには、さまざまなトリックを使って商品をごまかし、それで薄給の埋め合わせをするという習慣があったのをストップ(原文「杜絶」)させるということがあった。これまでは反物を背中に入れて店の外に出ると、その反物がさっそく金銭に変わるルートがあったのである。
これでは古い店員の中から物質的、感情的な両面からの不平が出てくるのは当然だった。そこで私は店員全員に向かい、大幅な増給をするかわりに不正は絶対に許さないので承知しておいてほしいと宣言した。一方で給料を上げ、一方で不正を禁じたのである。
しかし長年のうちにしみ込んだ悪習を簡単になくすことはできなかった。さまざまなトリックが使われるたびに、その尻尾を捕らえるということが続き、彼らはついには改革に反対し、さまざまな悪い宣伝を行うようになった。またかつて店員として勤務したことのある三井の老主人などに訴え、多数の者が一丸となって同盟ストライキ(原文「罷業」)を決行するに及んだ。
ここにおいて私はきっぱりとその関係者を免職し、新規に採用していた学卒者に一時期事務をとらせることにした。しかし定規の持ち方も知らないような新参者が、複雑な顧客の注文に応対することの困難は並大抵ではなく、いわば言語道断だった。
私はこのとき、この問題が非常にデリケートなもので画一的に処分を断行するのでは解決できないと判断し、遺憾ではあったが滝沢氏を三井銀行に転勤させ、かわりに日比翁助氏を連れてきて局面打開に当たらせることにした。ストライキをやった番頭たちにも復職を許し、いわゆる妥協解決をはかったのである。これは非常に姑息な手段であったかもしれない。しかし、もともとが人気商売である呉服店で長い混乱状態が続くことは顧客に対して申し訳が立たないことだと思い、なまぬるいやり方でケリをつけてしまったのである。
それでも店舗改革の方針については一歩も引かず、のちの百貨店の基礎を築くことができたという点で不幸中の幸いであったというべきだろう。
実業奉公の覚悟(上巻322頁)
私は明治三十一(1898)年から三井鉱山の理事に任命された。当時の本業は三井呉服店の理事であったが、今回さらになじみの薄い鉱山会社の理事を兼任することになったことには理由があった。
当時、三井の整理に成功してほとんど全局面を支配するかのような勢いがあった中上川氏が、戦後の膨張の反動で三井営業店での利益が減少し銀行の金融が逼迫したことを受けて、突然、貸金の回収を命じた。すると中上川の勢力を牽制する動きが暗黙のうちに起きてきたのである。たとえば、大蔵省の役人だった早川千吉郎が三井元方に採用されたのを手始めに、官吏の天下りが続々と増員されるという気配が見えてきた。
私が鉱山理事に任命されたというのは、中上川氏がこうした動きに警戒し、気心の知れた人物を要所に配置することで天下り組の侵入者を防ごうとしたためだろうと思われる。
私としては、三井呉服店の整理が終わったら当然三井銀行に復帰することになると思っており、またそれを希望していた。しかし私の実業奉公に対する覚悟は、三井のような大家の使用人になった以上、ただ主人の命ずるところで働き、その仕事が自分に適しているかどうかを問うべきではない、というものだった。鉱山理事になれば、もっぱらその業務にあたり、その職分を尽くせばよいのだと思い二つ返事で応じることにした。
三井呉服店の仕事はおおかた支配人の日比翁助に委任し、私は鉱山専務の団琢磨氏【のち男爵】を補佐することになり、明治四十二(1909)年まで鉱山事務に当たることになった。その間、三池築港事業が進行中だったのでしばしば九州に出張することになった。(注・日比翁助の三井呉服店改革については122を参照のこと。三池築港については123を参照のこと)
明治四十二(1909)年に三井内部の組織改革があり、王子製紙会社の社長職を打診されたときにも二つ返事で承諾したのは前述したとおりの私の覚悟によるものである。職務はただ主人の命じるままに自分は最善を尽くすのみ、適職かどうかを自分で判断してはいけないという考えを実行したまでである。
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