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  九十三  

福澤先生の来店(上巻317頁)


 私が明治二十八(1895)年から改革に着手した三井呉服店は日清戦争後の膨張に乗じて大きく発展した。百貨店の卵ともいえる「陳列場」の試み(注・76「呉服小売法の変改」を参照のこと)が非常に好評だったために旧店舗の西側に増築した二階建ての陳列館は、明治三十(1897)年ごろの東京において、ほかでは見ることのできない壮観を呈していた。
 そのころある日、私は福澤先生を訪問し次のよう述べた。
 王政維新後の日本の政府の事業はおおむね西洋文明流に変わってきた。しかし民間の商業では、小売店での販売業の歩みは遅々として旧態依然だ。それを改めるために、今度三井呉服店で西洋流のデパートメント・ストアの販売法を試してみるつもりである。当分のあいだは呉服以外のものを陳列するにはいたらないと思が、呉服についていえば、和洋の一切を網羅するに至ったので一度ご来観願いたい。
 すると先生はいつものようにニコニコされ、それはさぞ面白かろう、さっそく拝見しましょうと言って、日付は忘れてしまったが、ある日の午後二時ごろから来店された。

 まず西館の客室にはいり私の説明を聞いてから、新旧の売り場、意匠部、そして仕入部と、店内をくまなくご覧になった。そして再び客室に戻られたとき、鳥尾小太子爵が偶然来店しており同じ部屋で対面することになった。このとき鳥尾子爵はヨーロッパ諸国を巡回しての帰国後まだ間もない時であったようで、洋行前に先生と話した何かの事柄についてオーストリアの某博士のところで質問してきたが、その意見はかくかくしかじかと、滔々と述べ始めた。先生は最初から気のなさそうな顔できいていたが、話があまり長引いて非常に迷惑に感じたらしく、そのような話をいたしましたか、一向に記憶していないのですが、などといかにも不熱心な様子なので、鳥尾子爵も手持無沙汰になってしまったという一幕だった。
 さて先生は私に対し感心と激励の言葉をくださった。慶應義塾を出た者は学者であるにもかかわらず俗務に就いて、旧来の商工業者に劣らぬ働きをしている。例えば、あの荘田平五郎を見てみよ、在塾中は、いつも折り目正しく袴をはき謹厳な学者風であったのに、三菱会社にはいってからは汽船の運行に関する激務に携わり、さっさっと事務処理をし立派な会社の重役になっているではないか、呉服店の営業というのは、汽船会社よりもなおいっそう煩雑な事務なのに、そこに学卒者(原文「学者」)が飛び込み、二百年間そこで事務に慣れた番頭の仕事を引き受けて、さっさっとその改革をしていくとは、なんと痛快なことだろう、と非常に喜ばれたのである。
 それで私の肩身もなにやら広くなったものだった。時事新報に在社中に論説の執筆をして、先生のお気に召したときにはずいぶん褒められたこともあったが、このときほどに褒め言葉をもらったことがなかったので、私はそれまでの生涯で覚えがないほどに嬉しかった。先生はその後も人に会えば私を例にひいて、学者にできないことは何もない、と説明されていた。それを私自身も聞いたし、また人からも伝え聞き、非常にありがたいと思ったことだった。



染織業の大進歩(上巻319頁)


 私が三井呉服店を改革し始めたのは、日清戦争の終わった明治二十八(1895)年八月からである。戦後の景気拡大の機運がめきめきと盛り上がり、呉服の商売にも発展の兆しが見られた。
 しかし何分にも染織業者が保守的なので進んで改革を試みることがない。新しいものを製造しても問屋や小売店の好みに合わなければ、みすみす損失を招くということで、どれもこれも同じような、まったくの紋切り型の製品しか作らないのである。
 私は染織製品の産地を巡回視察して製造業者に面会し、これからまさにやってくるであろう新しい時代の要求にこたえるために新しい品物を生産してくれるように勧告することを思い立った。

 そこでまず京都西陣の染織工場、丹後宮津、近江長浜のちりめん織元を視察した。東北地方では桐生、足利、伊勢崎の御召糸織銘仙(原文「銘選」)、仙台、米沢、越後の各地では袴地縮(注・ちぢみ)の製造場を歴訪した。そして、春秋二期の染織展覧会に優秀な作品を出品してもらうようにした。こうして彼らも大いに活気づき、製品の品目を一新した。
 私は国内だけでなく、シナ(原文「支那」)の機業地も視察し、もしも輸入するのに適当な品があればその織元と契約をかわそうと思い、三十一(1898)年の三月に、仕入方の山岡才次郎を伴いまず上海を訪れた。ここでは三井物産支店の仲買人である袁氏に世話してもらい、蘇州、杭州、その他付近の織物工場を巡回視察した。しかし康熙、乾隆時代以降、シナの工芸美術がいちじるしく堕落した結果、織物もまたまったく進歩していなかった。あるのは簡単な緞子織物だけで、採用するに足る品物はないという実況を見きわめたうえで帰国した。
 そのころは戦後の景気拡大が世間にみなぎり呉服関係の売れ行きも非常に増加した。時勢とはいいながら、私の染織業界の奨励活動により、この産業が画期的ともいえる進歩を見せた。これは、まことに予想を超える成績だったと言えるのである。


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