九十二 寸松庵開き(上巻313頁)
私が明治二十八(1895)年に大阪から東京に呼び戻され三井呉服店の理事になると、仕事柄それまでの書生生活から抜け出し、ひとかどの紳士になりすますことになった。書画、骨董、茶事、音楽、演劇、相撲、はたまた花柳界にも手を伸ばすことになり、その勉強や道楽でいくら時間があっても足りないほどだった。
その中でも、まず茶道について話そう。三井家の主人はもともと本拠地が京都だったので、茶道の流派はたいてい表千家であった。その好みは番頭たちにも伝染し、益田孝、馬越恭平、木村正幹、上田安三郎はすでに相当の数寄者になっていた。旧番頭のなかにも齋藤専蔵、今井友五郎らの茶人がいたので、朱に交われば赤くなるのたとえのとおり、私もしばしばこの人たちから招かれることが重なると天性の嗜好に油を注ぐことになり、彼らとの交際に忙殺されるようになっていった。
これに先立ち、私は益田克徳氏の茶会を皮切りに(注・59「最初の茶室入り」を参照のこと)大阪にいるあいだにもしばしば茶室入りしていたが、明治二十八(1895)年に東京に移ってからは病みつきになっていったのである。
明治三十一(1898)年に麹町一番町に新宅を建設したときには茶室、露地の設計を益田克徳氏に依頼した。そして、あの五か条の御誓文の起案者として有名で、当時新宿御苑の一部に住んでいた由利公正子爵から、その邸内にあった寸松庵という三畳台目の茶室を譲り受けることになった。
この茶席は寛永の昔、徳川三代の将軍の茶道師範だった佐久間将監真勝が京都紫野大徳寺境内に創建したものである。小堀遠州の孤蓬庵の向かいにあり、開基は江月和尚、初住は翠巌禅師で、異彩をはなつ唐門をはじめ建築上のさまざまな趣向が施されていたという。
この寸松庵が明治十二(1879)年に維持困難になり、ついに取り壊されたとき、石山子爵がその茶室を引き受け東京の新宿御苑の一部の土地を借りて移築された。茶席のほかに、二畳敷、中二階式の袴付席があり、庵に付属していた播知釜(注・織田信長が佐久間信盛に与えた釜)や、与次郎(注・千利休の釜師、辻与次郎)の五徳なども一緒に、杉孫七郎子爵の仲立ちで私が譲り受けることになった。そのとき杉子爵から私に送られた狂歌は、
お値段はたかはし【高橋】にてもよしを【義雄】かへ 袴つけたる佐久間将監
というのであった。
益田克徳氏は、この袴付席を、邸内の東南寄りの竹林中に建てることにし、露地の設計に非常に苦心された。私は大阪に滞在中に毎日曜日ごとに寺院を巡っているうちに伽藍石に対する愛好心を持つようになり(注・72「古社寺の巡礼」を参照のこと)、その熱が充満している時期だったので、奈良地方を中心に畿内各地にある千年以上の古寺院にあった蹲踞【つくばい】石、伽藍石、石塔などを物色し、法華寺の大伽藍石七個、海龍王寺の団扇形蹲踞石、法隆寺の煉石十三重塔などを買い取っていた。それを庭の要所要所に配置した。
益田氏は、栃木塩原の景勝の縮図を庭園内に写して作庭を行った。わずか千坪の小さな庭ながら、奈良の古石を東京に持ってくるのは、この庭が初めてだったので、東京の好事家の目を驚かすことになった。井上侯爵が内田山邸に奈良石を搬入されたのは、このあと一、二年後のことだった。
こうしてこの席は、旧名である寸松庵を襲名し、席開きの茶会のときには床の間に紀貫之筆の丹地鼈甲紋寸松庵色紙の、
年ふれはよはひはおいぬしかはあれと 花をし見れは物おもひもなし
というのを掛けた。
この色紙は、古来、古筆家が紀貫之であると認定したもので、同筆として高野切、家集切【いえのしゅうぎれ】などがあるが、この色紙が最高傑作であるとされている。最初、和泉の堺の南宗寺にあったものを、初代の古筆了佐の鑑定を経て、烏丸光広卿が買い取った。そのときには三十六枚あったが、その後、佐久間将監が中から十二枚選び出し、色紙の歌に相応する図柄の古扇面を取り合わせ、色紙を上に、扇面を下に貼りまぜて一帖を作り、寸松庵の備品にしたのである。それを世間で寸松庵色紙と呼ぶようになったために、この名前がある。
その扇面帖は、その後一枚一枚に分散し、現在の所在がわかっている二十九枚のうち扇面まで揃っているのは、わずか四、五枚に過ぎない。
私は寸松庵開きのために是非ともこの色紙がほしいと思い、三十一(1898)年に一枚手に入れた。それは千円ほどであったが、それから二、三年後にまた手に入れたときには三千円にまで値上がりしていた。その後も大正五(1916)年には二万二千円というものがあり、同十四(1925)年ごろには五万三百円というレコード破りがあった。
私は明治四十二(1909)年に、この色紙のうちの十七枚を模写して一帖を作り(注・模写したのは田中親美)、田中(注・光顕)宮内大臣の手を経て明治天皇皇后陛下に献上した。その後十数年たってから名古屋の森川勘一郎氏が模写させたときには多数の新発見があり、総数は二十九枚に達していた。
私の寸松庵開きには、例の播知釜を用い、東久世通禧、松浦詮伯爵、三井(注・松籟か)、石黒(注・忠悳)、益田(注・孝)、赤星(注・弥之助)、安田(注・善次郎)、馬越(注・恭平)などの当時の長老茶人を招待したので、たちまちこの方面の評判になり、さっそく推薦されて和敬会の会員になった。いわゆる十六羅漢の一員になり、それから今日まで茶人仲間として在籍することになったのである。これが、私の三十七、八歳のころのできごとである。
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