九十一 

相撲の躍進(上巻310頁)


 日清戦争後の膨張の影響は社会の各方面に波及した。相撲もそのひとつで、ほとんど空前絶後といえる活況を示した。
 明治三十一(1898)年の一月場所だったと思う。両国の回向院で常陸山と梅ケ谷が同時に幕内に進み、今度の勝敗次第でどちらが先に大関になるかと注目され、相撲始まって以来の人気が湧き起こった。

 私はもちろん常陸山びいきだった。というのは、彼の父は市毛高成という水戸の士族で、通称河岸通りという那賀川に近いところに住み、その家は私の生家からも近かったからだ。
 高成の弟はのちの内藤高治で、あの武徳会の剣道師範である。私とは親しい友達で、そのころは季吉といったので、私は季公、季公と呼んでいたが、これがすなわち市毛谷右衛門こと、常陸山右衛門の叔父さんだった。そのうえ私の兄弟以上の親友だった渡邊治に彼と姻戚関係があったので、明治十七、八(18845)年ごろ常陸山が東京に出てきたときに、渡邊に力士になりたいと相談に来たことを私は渡邊から聞いてもいた。
 それから約十年のあいだに彼は都の人気を背負って立つ大力士になった。渡邊はすでに故人となったので彼は私を叔父のように思いときどき訪ねてきたりもしたので、最初に話した大勝負の前日に私は彼に会い、おおいに激励した。

 当日も彼の一世一代の出世相撲を見物しに出かけた。もともと豪胆な男なので気力はすでに敵を呑み込んでいた。そして梅ケ谷との取り組みが始まり堂々と彼を土俵の外に押し出した。
 そのときの場内の歓声はしばらくやむことがなかった。これほど観客が熱狂したことは、あとにもさきにも例を見ないのではなかろうか。そのころはまだ大鉄傘(注・鉄骨ドームの国技館)ができておらず小屋掛けの土俵だったが、勝ち力士めがけて羽織や帽子を投げ出すというならいがあったので、私もかぶっていた山高帽を土俵にむかって投げつけたものだ。しかし両力士の仕切りのあいだは胸が高鳴るのを止めることができず、勝負の間際には正視に耐えず目をつぶってしまった。
 こうして常陸山は、梅ケ谷よりひと足先に横綱になり、近代まれに見る名力士とうたわれることになった。そればかりか角界の経営面でも大手腕を発揮し、出羽の海部屋を今日のように繁栄させ、彼の生存中もずっと全盛を維持することに成功した。これは時代のなりゆきということもあったかもしれないが、やはり彼の努力に負うところも大きかっただろうと思う。
 当時、時事新報社長だった福澤捨次郎氏が常陸山びいきで、私と一緒にいつも彼を招いて会食を行った。あるとき彼の身長体重を公表するため、彼を交詢社に呼びくわしく調べたことなどもあった。彼の祖父は水府流水練の達人で、父は弓の名人、叔父は剣道師範だった。一族のいずれもが頑丈な体格の持ち主だったような家柄の出身なので、彼の存命中は角界が武士気質を帯び、なんとはなく気品も高かったように思う。
 いずれにせよ、私がこのような名力士と同郷なばかりでなく、きわめて親しい関係を保ったことはとても愉快な思い出である。 

   


常陸山談片(上巻312頁)


 前項で常陸山の話が出たので、彼が力士を引退後に、年寄として朝鮮満州巡業の監督で出かける前に私の四谷伝馬町の家を訪ねてきたときの雑談の断片をここに記す。
 「私も今度、年寄になりましたが、力士は盛りが短く、四十を越えたばかりで、はや隠居です。しかし私が年寄としてなすべき仕事はたくさんにあります。出羽の海部屋は、はじめ三人ばかりの弟子であったのが今は百人以上になって、一部屋で巡業相撲ができますから、私の言い分は相当に通用するつもりであります。ところで私が第一に改良したいと思うのは、例の物言いで、先日の相撲には、物言いが四時間以上も続いて、観客に迷惑をかけました。これも土俵の上の問題ばかりならまだよろしいが、平常の感情が絡み合うので、かような不体裁ができますのは、協会という大局より見渡して判断せぬからであります。私は今後、苦情が長引けば、取り直させることにいたす決心であります。また私は高砂家という相撲茶屋で、一年に、二、三千円の収入があるそのうえに、相撲年寄は平年寄が一場所十日間で十円、役員が三十五円くらいの給料で、本場所の配当は、ひとりあたり四百二十円でありますから、生活に困難なことはありません。ただいま年寄は八十八人ありまして、協会で身元金として五百円をおさめ、年寄の株を買うのが、約千五百円でありますから、年寄になるには二千円いる都合なのであります。私のこれからの仕事は、第一力士の養成であります。およそ、芸事はこども時から仕込むものでありますが、相撲ばかりは少し違い、まず早くて十八、九歳ころからで、色気が出て、負けては恥ずかしいという心持が起こらぬ間は、いかに仕込んでも本気になるものではありませんから、相撲の修業の年月は短い、それだけ一度に熱心に稽古をつけねばならぬわけなのであります。云々」


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