九十 美術鑑賞熱(上巻306頁)
日清戦争の結果、世界が日本を大国だと認めたのと同時に、日本人もまた自分たちが大国人になったという気持ちを持つようになった。そしてそれまで劣等感を持っていた自国のあれこれが急にありがたいものに思えてくるようになった。なかでも維新後に瓦礫同様に扱われた道具(注・骨董)や、二束三文で売買された書画に対して、一時に鑑賞熱が高まったことはもっとも顕著なあらわれだった。このことについて少し考えてみたい。
維新の変動は日本人の心を急速にかきみだした。ひとつには社会の不安定のために、もうひとつには古いものを破壊したために、ものごとを平静な気持ちで判断することができなくなってしまった。
昨日までは、お家の大切な宝だった「小倉色紙」も「千鳥の香炉」も、猫に小判だかなんだかのように顧みる者がなくなってしまった。
そのようなときに、アメリカからフェノロサらがやってきて日本の美術品が非常に優秀であると説き、その当時二束三文で売買されていた数々の書画骨董を買い集め、ボストンその他の美術館に送り始めていた。
ここで日本人もはじめて目が覚め、明治十一、二(1878~9)年ごろ、この世界における先覚者と言われていた佐野常民【のち伯爵】、塩田真、下條正雄(注・桂谷)の諸氏が、「龍池会」という書画鑑賞会を設立した。そして折にふれて展覧会を開催し、共鳴する人々を集めていった。
その努力が実り、だんだん世間で美術の鑑賞熱が高まっていった。そこに、ちょうど日清戦争後の景気拡大の勢いが加わり、いろいろなところで美術的な会合が開催されるようになっていった。なかでも一番有力だったのが「大師会」である。
そもそも大師会は、明治二十四、五(1891~2)年ごろから書画、茶器を購入しはじめた益田孝男爵が、同二十八(1895)年ごろに狩野探幽が所持していた弘法大師の真蹟の座銘断片十六字の一巻を得て、翌年の三月二十一日【大師の命日】に、御殿山の自邸においてその披露の会を催したのが発端である。
それから三十年あまり、この回は連綿として継続し、最初は御殿山の益田邸でのみ開催されていたが、近年では音羽護国寺に場所を移している。毎年四月にその座右銘を本尊として、和漢の仏画、古書画など、だいたい上代の美術品をそろえて陳列披露し、全国の愛好家の会員を集めることになった。このため、この会がいろいろな方面の美術鑑賞熱を喚起することになり、同時に、ひとびとの鑑識眼を向上させることになった。そうした効果については決して忘れることはできないのである。
このころに、また別に「天狗会」という会も発足した。これは近藤廉平、加藤正義、赤星弥之助、朝吹英二、馬越恭平、浅田正文らの同人が、時に茶会的に、時に宴会的に、各家で順番に持ち回りで会を催したのものだった。名器、名幅を陳列して、集まってくる大天狗、小天狗どもを驚かそうという魂胆で、趣向もさまざまだった。
近藤廉平男爵が牛込の佐内坂邸で開いた会では、鞍馬山というのが大まかな趣向だった。座敷の中に杉の大木でセットを作り、つぎつぎにやってくる大小の天狗が、あぜんとして目を見張っているところに、木の葉天狗の装いできちんと化粧をした者が目八分の高さにお膳を掲げてお給仕に出てきたので、一同、高い鼻を砕かれて、これはこれは、と閉口するばかりだった。
また明治二十九(1896)年ごろから「二二会」という会も発足した。これは、会員の各自がすこしずつ書画や骨董を持ち寄り入札をする。そして、二番札の者に賞与を与え、最低額の者には罰金を課すというものだった。日本橋区浜町の常磐屋、京橋築地河岸の壽美屋などに会合したのは、鳥尾小弥太、富永冬樹、馬越恭平、赤星弥之助、加藤正義、近藤廉平、浅田正文、益田英作、朝吹英二の顔ぶれであった。
私は当時、三井呉服店の理事で、仕事上の関係もあったため毎回これらの会合に出席した。あるときは鳥尾小弥太子爵が出品した仏画を落札し、たいそうお礼を言われたこともあった。
このころまでは、道具がまだたくさんあったから、会員がなんの気なしに持ち寄った出品物が、後年におおいに出世して数万円の高値になることもあった。
最初のうちは出品が名品揃いだったが、だんだん品位が落ちてきたので、二二会というのは、もともと二十二日に開かれるのでそういう名前がついたのだが、がらくたの荷に、荷が重なる会だ、などという悪評が出てくるようになり、ついには崩壊することになってしまった。
さて、茶事方面を見てみよう。当時「和敬会」という会があった。会員を十六人と定め、欠員があると補充するという仕組みになっており、別名を十六羅漢会ともいった。この会の主なメンバーは、松浦詮伯爵、東久世通禧伯爵、石黒忠悳子爵、三井八郎次郎男爵、同高保男爵、益田孝男爵、安田善次郎、加藤正義、吉田丹左衛門、馬越恭平、大住清白の諸氏であった。この会は明治中期から大正初期まで続き、東京の著名な茶人はだいたいこの会に加わっていたため、この会が原動力になり茶道の盛運が促進されることになった。その効果は、じっさいのところ非常に大きなものだった。
このようにして、美術鑑賞熱が高まっていったが、それにともない美術品が非常に値上がりしていった。その顛末については、また後段で取り上げていきたいと思う。
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