八十九 下條桂谷画伯(上巻303頁)
私は、明治時代随一の画伯である下條桂谷(注・げじょうけいこく)翁と明治二十九(1896)年ごろに知り合いになり、翁の人柄に惹かれ、またその画風を愛したので、翁の逝去まで非常にちかしい交際をした。そのため翁について語るべきことも非常に多いが、ここでは初めて会ったころのことを記してみたいと思う。
翁は米沢藩士で名を正雄といい、桂谷、雲庵などの号がある。絵を描くことが幼いころから好きで、寺子屋に通っているころ読書、習字はほったらかしで、いつも何か絵を描いていた。武士気質の父親がこれを嘆き、懲らしめのために菩提寺の和尚に預けられてしまった。ところがそこでも絵好きの性質が増すばかりで悔い改めるようすもないため、和尚も匙を投げて実家に帰らされてしまった。
ところが実家が貧乏なので、翁は玩具店の主人に相談して凧の絵を描くことになった。その鯉や金時や雲竜などの絵が抜群にうまいために人目をひき、凧の売り上げが非常に好調だった。そしてその代金収入も上がっていった。
そこで両親もとうとう折れ、翁に絵画を習わせることにしたのである。十二、三歳のときから同藩の目賀田雲川先生のもとで修行することになった。この雲川先生というのは、米沢の片田舎に住んでいたために世に名が伝わることはなかったが、遺品を実見してみると、筆力雄健、画想高邁で、谷文晁に比肩する腕前を持つ画家だったことがわかる。
桂谷翁はそのような良き師を得て、少年時代に腕を上げたわけである。翁が後年において、日本絵画の過渡的な時期に、黄河に立つ石柱(原文「中流の砥柱」)のように毅然としてそそり立ち、その見識を保ったのも、このような教えが基礎にあったからである。明治の絵画界は、下條翁を通じて目賀田先生に負うところが少なくなかったと言わねばならない。
翁は維新の初めに朝廷に召し出され、まず若松軍務監出張所に出仕した。次いで東京に出て、市中取締を命じられた。その後海軍に歴任し貴族院議員となった。このように、中年の時代に官界に身を置いたというのは、翁が世渡りに長け、文筆も立ち、どこに行っても通用したからであった。そのために、本来なら絵画の大作を残すべき二十五歳から五十歳までの二十五年間を、それ以外のことに使ってしまったことは非常に残念ではある。
このように、翁の絵画は、二十歳前後と、五十歳以降の二十年余りの間に生み出されたものである。安政六年の、翁が十七歳のときに描いたという「鉏魔覷趙盾図」(注・趙盾(ちょうとん)は、晋の政治家)などは、自分で構図したものではないだろうが、その筆はのびのびとして、ぎこちなさは感じられず、趙盾の着物を描くしなやかな細い線は、後年の老熟の域に達したときの翁の作品を見ているようである。これが十七歳の手になるものかと思うと、いよいよその天才には敬服せざるを得ない。
下條翁の師である目賀田雲川先生は狩野派の画家であった。その見識は高邁で、雪舟のような風格があったということだ。下條翁も師にならい、ひごろから宋、元の筆使いを究めていった。夏圭、馬遠、牧谿、梁楷を総合して自分のものにし、その雄健な筆遣いには限りない味わいがあった。
図柄については必ずしも新案というわけではなかったが、少年時代から練磨を重ねた筆の力は、その一線一画の中に、すなわちワン・ストロークの中に、なんともいえない風情が見られた。
画風はというと、宋元、狩野、土佐、四条、あるいは文人画にいたるまで、なんでも来いであった。また特に席画が得意で、とっさに描いた作品のなかに、かえって得難い逸品が含まれていたものだ。
そのかわりに、ときおり出来のよくないものもあって、同じ人の作品だとは思えないくらいの違いがあることもあったが、傑作のほうを見れば、古今を見ても不朽であると認めざるをえないものが少なくない。
そもそも、維新後の学問や芸術の各分野において現れたすぐれた人材は、おおくの場合、旧幕時代の遺産であるといえる。そのなかで、名人の域に達している人も多く、ほかのどの時代と比べても、けっして遜色のない多士済々である。しかし絵画の分野だけでは、他の時代に比べて傑出した大家というのが見られなかったようなのだ。
ためしに明治時代を見渡してみると、その初期における狩野芳崖は、たしかに当時の第一人者ではあったが、しかし稀世の偉才というほどの画家でもない。
野口幽谷も相当に有名になったが、この人も一国一城の雄であるに過ぎず、天下の才とは言えないだろう。
橋本雅邦はたしかに大家と称してよい一人であるが、絵の主題に筆の力がついていかないことがあり、言うならば、意余りて技足らざる、の観がなくもない。
川端玉章にいたっては、その絵と、友禅染のあいだに、どれほどの差があるのかがわからない。
この際、古今無類の野口小蘋女史がいたことを明治時代の誇りとすべきなのかもしれないのだが、これまた、女流としては無類であったとするしかないのである。
以上のことから、わたしは下條桂谷翁が、維新後の絵画界における彗星であり、その傑作においては狩野探幽を優に超えるものもあることを断言してはばからないのである。
残念なことに翁は、はじめ海軍軍人、次いで貴族院議員として政治方面に力を散じてしまったために、画伯として古今に知られるような業績を残さなかった。しかし、明治画檀を席けんした洋画模倣の波にのみこまれることなく毅然として自分の主張するところを守り、東洋伝来の画風で、今日もなお、完全なる地位を保っているのである。これは下條翁が遺した威光であると言っても過言ではあるまい。
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