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八十八   明治能楽界の三傑(上巻300頁)

 明治時代の能楽界には宝生九郎、梅若実、桜間左陣という三傑がいた。これは演劇界に、菊、左の三優がいたのに相対し、まったく世にもまれな壮観だった。
 宝生九郎は梅若実に比べ人物も気質もやや大まかなところがあった。芸風でいうと、九郎が十郎ならば、実が菊五郎、左陣が左団次だというところか。
 実ももちろん美声で、独特の人をひきつける謡いぶりだったが、九郎は、最高の美声で名高かった。私は彼が明治二十五(1892)年ごろに芝公園内の能楽堂九段の招魂社境内に現存花筐を勤めたのを見たが、揚幕の内側から「いかにあれなる道行人、都への道おしえてたべ」と呼びかけるその声の朗々として満場に響き渡る心地よさが、今でも耳の底に残っているほどだ。
 もともと宝生流には美声家が多く、昔から地宝生といわれている。九郎が地頭(注・地謡の統括者)に座るときには、他流で聞くことができないくらいに地方(注・じかた)が揃っていた。彼は、実が円満な体格であるのに対し痩せて長身だったが、姿勢が整然として、舞ぶりも堂々として舞台を圧倒していた。
 どれかを選ぶとすると、鉢木、景清、高野物狂というような、武張った渋い型が優れていたように思う。芸の名に傷がつかないように芸人的な利欲から離れたところにいた点で、頑固で妥協を知らない古武士のようだった。
 彼はあまり多くの素人弟子を取らなかった。ただプロだけを養成して自流を後世に伝えようとしていた。そうしたところがなんとなく禅宗の僧に似ていた。
  六十一歳のときに安宅を勤めたあと、きっぱり舞台から引退したということも、彼の芸道における意志の固い信念を裏書きしている。
 私は幾度となく九郎と対話する機会を得たが、あるときに九州の安川敬一郎男爵が、山県有朋侯爵を有楽町の三井集会所に招いた席上で九郎が仕舞を舞われたことがあった。その仕舞を見終えた山県公爵は、いかにも整然たる姿勢ではないか、二個の茶碗に水を盛って、彼の双肩に載せておいても、あまりこぼれないだろうと思うがどうだろうと、そばの人に話されていたのを九郎は黙って聞いていたが、その眉間には我が意を得たりの深い満足の様が見えた。
 梅若実は、人となりが非常に怜悧で世渡りたけていた。思慮がすみずみに行き届き、単なる能楽者として群を抜いていただけでなく、何をやってもひとかどの成功を収めるだろうと思われた人だった。
 彼は座談がひじょうにうまく、話が芸道のことになると話の材料が驚くほど豊富で、とうとうと語り続けたものだ。
 あるとき時事新報に談話の連載をしたことがあった。能楽、謡曲について、これまで誰も語らなかったことについて詳しく論じた。この世界を知る参考として当時の人の大きな注目をひいた。

 彼は芸について非常に工夫をこらし、彼によって梅若流の演能に改良を加えられたものが多々ある。とくに、他流の演能では男女の差をあまり緻密に表現せず、たとえば三番目の鬘物(注・五番立ての演能で三番目に演じられる女性がシテの演目)を演じるときも、武張った型になっていたのを、けなげに両足を揃えることにしたり、女物を演じるのにときどき毛ずねが見えていたのを、ももひきをはいて隠したりした。つまり、老若男女や貴賤に応じてそれぞれの性質をあらわすことに苦心したのである。今では他流でもまねするようになった。
  かつて明治天皇の仰せを蒙り、観世流の謡曲本にみずから節付を書き入れてお手元に献納したこともあるそうだ。
 婿養子の清之(注・のちの観世清之)、実子の万三郎、六郎に対して流儀のすべてを伝え、八十二歳の高齢で没する二年前まで舞台に立った。維新後に衰亡の極致にあった能楽界においてその復興に果たした苦心の数々については、また別項を設けて記述することとしたい。
 桜間左膳とは私は深く交際しなかったので、実や九郎と同じようには、その人となりを語ることはできない。しかし芸に忠実で、それが長年にわたり洗練された結果である足さばきはみごとであった。その堅実で渋みのある芸風は他のふたりに実力肩を並べていたと思う。
 私は彼の芸風が好きで、彼の出演する舞台なら、いつでもどこでも参観するようにしていたが、彼は、特に四番目物に秀でていることと、老人物が得意なのが特徴だと言えた。
 晩年、模範的な松風を演じるという評判があったので興味を持って見物に行ったことがあった。しかし老体のため、首が肩の間に落ち込んでいる松風であった。十郎の晩年の道成寺と同じく、いくら名人とはいえ不自然なのは免れないようだった。
 実も晩年に、若手たちに手本を遺すということで、先代の観世銕之丞と蝉丸を演じたことがあったが、よせばいいのに、と思われたものだった。
 その点で、九郎はその名に傷をつけぬようにと、還暦後に舞台に立たなかったのは、ひとつの見識というものであろう。
 私は自分が明治時代に生まれあわせ、演劇界の菊左とともに能楽界の三傑を目撃することができ、芸術鑑賞のうえで非常に幸福なことだったと思うのである。


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