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八十七   梅若流稽古 (上巻296頁)

 私は、自分が梅若流の謡曲稽古し始めたのがいつだったかということをはっきりとは覚えていなかった。最近別の用があって梅若六郎氏を訪問したついでに、そのことを話してみたところ、六郎氏は、父上、実翁の直筆の門入帳を出して見せてくれた。その記録によると私のは、明治二十八年十月二十八日三井支配人高橋義雄とあった。
 この門入帳を最初から見てみると、明治十三(1880)年に益田孝、三井八郎次郎(注・松籟三井高弘)、十四年に古市公威、鳩山和夫、十六年に団琢磨、十七年に馬越恭平が入門している。それには驚かなかったが、十四年三月二十三日に元老院権大書記官金子堅太郎とあったのが意外だった。
 その後偶然に金子子爵に面会することがありこのことについてきいてみると、子爵は今昔の感にたえないという面持ちで次のようなことを語ってくれた。

 当時は能楽界が悲惨きわまりない窮状を示しており、厩橋の梅若能楽堂の一部を借家にでもしないと家計もまかなえない状態にあったが、「たとえ道端で謡を謡うことになるとしても、能楽堂を手放すことだけは祖先に対して申し訳が立たないという翁の嘆息をきいて同情にたえかね、ひと月にいくらあればよろしいのかと訊くと、三十円で足りるというならばわれわれが門弟になって、それに相応する月謝を提供しようということになった。僕は自宅に来てもらい、ほかの人たちは九段下の玉泉堂を稽古場にして出稽古をしてもらったのだ、ということだった。
  さて私が梅若流の稽古を始めたのは、前述のとおり明治二十八(1895)年からだった。(注・73「謡曲稽古の発端」を参照のこと二十六年の大阪滞在中に宝生流の謡曲と仕舞を習い始め師匠はそのとき大阪にいた名古屋人で、木村治一という六十歳前後の老人であった。この老人はすこぶる美声で相当な能楽の心得があったので、謡曲とともに仕舞も教授していた。

 当時まだ二十代だった、木村の息子の安吉は、以前に宝生九郎の内弟子になり、今の松本長、野口政吉らと同輩であったが、怠け者で師匠のところにいることができず、やがて老父のもとに戻ってきた。私は老父の依頼で安吉を一時三井銀行に採用してやったが、私が大阪を去ったのち今度は東京に舞い戻り、ほどなくして若死にしてしまったという。
 このように私は最初に宝生流を習ったが、明治二十八(1895)年の東京移住後には三井の主家では全員が観世流なので、わたしもさっそく改宗することになった。そのころ神田小川町に住んでいた観世清廉のところに入門した。
 そのころの清廉は三十歳くらいだったであろうか、とてもよい声で、厩橋の梅若舞台にも出演することがあったが、もともと自由気ままな性格で、能役者としての作法を守ることがなく、女房と雑談しながら、ときどき振り向いて謡曲を教授するといった不謹慎さがあった。それで私は二、三度稽古に行き、班女一番を習っただけで、弟子のほうから破門ということにしてしまった。

 そして今度は観世清之のところへ行った。この人はすこししゃがれ声で渋味のある芸風だった。梅若実の婿養子であり、万太郎、六郎がまだ生まれる前には実の片腕となって働いていたそうだ。しかし私が行ったころには梅若家を離れ、元の観世姓に戻っていた。その晩年には謡曲本を発行し、この世界における功労者であったとのことだ。
 私は明治二十八(1895)年に東京に戻ってからは、麹町上二番町四十二番地の、加藤弘之氏の隣りに住んでいたので、三井呉服店に出勤する前に隔日くらいで謡曲の稽古をした。あるとき清之が病気し梅若万三郎と六郎が交代で来てくれることになり、進歩もあまり遅いほうではなかった。
 清景を稽古していたころのある日、その日は万三郎が来宅する番の日で、朝食をとるあいだしばらく座敷で待たせておいたことがあった。そして悠々として行ってみると、なんということか、梅若実翁が師匠の風格を示して正面にどっしりと座っていた。私はおおいに恐縮し、清景の「松門ひとり閉じて年月を送り」というところを稽古してもらった。年老いた盲目の清景が孤独の庵の中でひとりごとを言う場面である。その心境の説明後、発声の練習となった。その教授法が丁寧で、かつ徹底していたためか、それからというもの自身で謡っても、または清景の能を見ても、この一段のところに来ると翁の面影が目に浮かび声がはっきりと耳に聞こえる。これが名人の芸力というものなのだろう。
 私の梅若入門は、前述したとおり明治二十八(1895)年の十月だから、翁が来宅されたのは、たぶんその十二月ごろだったのではないか。それは翁が六十八歳のいまだ壮健なときで、私は三十五歳だった。
 その後私は、謡曲とともに仕舞も稽古し、さらに、猩々をはじめ、花筐、弱法師、三井寺、弦上、百萬、松虫、鉢木、盛久、俊寛、隅田川などの演能を試みた。そのときのことについては、また追って記述することにしたい。
 


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