八十六 明治中期の芸人(下)(上巻293頁)
明治中期の東都(注・東京)音曲会の第一人者といわれたのは常磐津の林中である。彼は常磐津の家元と喧嘩してしばらく盛岡に引っ込んでいたが、明治の中期にふたたび東京に舞い戻り、その豊富な声量と巧妙な節回しで、たしかに群を抜いていた。
ある年に彼が歌舞伎座で「関の扉」を語ったことがある。そのとき私は、関兵衛をつとめた団十郎に向かって「林中の地語りは、君の所作と科白に相応して寸分の隙もなく、ほとんど一人の人がやっているようで、実に驚くべき技能ではないか」と称賛したことがあった。すると団十郎は「仰せのとおり、よく語りますよ、まず現今、語り物では、西に越路太夫【のちの摂津大掾】(注・竹本摂津大掾)、東に林中でありましょう」と答えた。
林中は生粋の江戸芸人肌の持ち主で、大酒をたしなみ、座敷に呼ばれて芸が上手にできたときには相棒を引き連れて一晩喜んで飲み明かし、反対に芸のできが悪ければ、やけ酒を飲んで胸のうっぷんを晴らす、というふうで、いわゆる宵越しの銭は持たぬという江戸っ子であった。年がら年じゅう貧乏でも平気だった。
当時は林中が最高給だった。それでも、お座敷が一席につき三十円くらいのものだったので、配下の太夫たちにも貧乏人が多かった。芝居に出演していた一座の人たちが、あるとき林中に給金を五円あげてもらいたいと言い出したことがあった。林中はこれをきいて、よしよし、望み通り上げてやるが、そのかわり五円分よく語ってくれるか、と言われたので、その人たちは二の句が継げなかったとのことだ。
清元では、四代目の延寿太夫が美声ではあったが名人という域には達していないように思われた。しかしその妻、お葉は、清元を流行させた太兵衛と称する第二世延寿太夫の娘で、女流ながら実に稀代の名人だった。
お葉は、先代の清元梅吉を相手に清元を上品に唄い出した。女流のため、劇場で語ることはないかわりにお座敷で演じた。金屏風をうしろに立てまわし、きわめて上品に語り始めたのはこのお葉が最初であり、それを継承したのが五代延寿太夫の妻、お若だった。
お葉は喉がよかっただけでなく、その語り口にもおおいに研究を重ねた。たとえば、山姥の山巡りの段の「桃は気ままに山吹も」という甲高く派手なところでは、湯を飲むようにサラサラと語る。そして、かえって人があまり注意を向けないような「つくろう花のあだ桜」というあたりでは、なんとも言えない妙味をたたえて玄人たちを感服させるのであった。お若は、実は私の師匠で、そのことについては後述するつもり(注・139「清元師匠お若」を参照のこと)なのでここでは省略する。
河東節の家元であった山彦秀次郎(注・山彦秀翁、11代十寸見河東ますみかとう)も私の師匠であったので、ひとこと言っておこう。彼は一種の奇人だった。ものごとに無頓着であることこの上なく、しかも近眼であわて者(原文「粗忽者」)でもあったから数多くの滑稽談を残している。せっかちな男だったので、新橋あたりを稽古で回るときも、弟子の前に座って帽子も取らずに尻端折り(注・しりはしょり)のままで稽古を済ませると、フイと立って次の家に行ってしまうという不精さだった。
私の四谷伝馬町の家に稽古に来たある時のことだ。帰りがけに汁粉を出したところ、その膳に箸がなく、女中が箸を持ってくるまで待ちきれず、かたわらの火鉢にあった火箸を取って、これを食い終わるや、そうそうに立ち去ってしまったこともあった。
彼の才能は唄よりもむしろ三味線のほうにあった。掛け声が遠くまで力強く響き渡っていたことがいまでも人の記憶に残っている。
さて関西方面では竹本摂津大掾、すなわちもとの越路太夫が、先代津太夫(注・三代目竹本津太夫)とともに名人の域に達していた。津太夫は非常にききとりにくい声で、最初はほとんどきこえないのだが、しばらく我慢してきいているうちにだんだん妙味を感じるという芸風だった。これに対し摂津大掾は、古今に例を見ない美声の持ち主で、詞からいつのまにか節に移っていくときの、その息が長かった。節回しも自由自在で、それに魅了されない者はなかった。
明治二十八(1895)年の夏だったと思うが、私が有馬温泉に滞在したとき彼も同宿で、十日ほどのあいだ毎日のようにおしゃべりをしたことがある。彼はそれほど大柄ではなく、やや浅黒く、顔のパーツ(原文「顔の道具」)がよく整っていた。眉毛が太くて黒いのが特徴で、しゃべり方は重々しいが、故人の芸談などを思い出すままにポツリポツリと語るところをきくと、さすがに一流の重鎮であると思われた。
彼よりちょっと年上の女房が、赤子を扱うかのように彼の身の回りの一切を世話し、彼には金銭的なことには一切関わらせず芸道一筋に全力を打ち込めるようにしたそうで、彼は、少し前までの大名のように悠然としていかにも上品な物腰であった。
彼の稀代の至芸はもちろん彼の天分によるものであるが、環境もまた、その大成を助けたということができよう。そうだとすれば、これから先、彼のような名人が生まれることはきわめて難しいことだろうと思うのである。
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