八十五 明治中期の芸人(上)(上巻290頁)
市川団十郎についてはすでに少しばかり語った(注・38・下村と団十郎、75・九代目団十郎などを参照のこと)が、彼の全盛時代には演劇、講談、落語家などに稀代の名人が輩出し、じつに一時の盛観だった。これらの芸人は、もちろん一朝一夕に生まれたのではない。徳川時代からの伝統を受けて師弟間に継承してきたものが、このときにいたって発現したわけで、徳川時代の名残とでもいうべきものなのだ。世の中が世知辛くなり芸術の領域にパンの問題がつきまとうようになると、このような芸人を見ることは容易ではなくなるだろう。
芸人といっても大勢いるので、私は、明治二十四、五(1891~2)年ごろからの十数年間の、自分でも交流があって、その芸の力を知っている芸人だけについて多少の所感を書き残しておこうと思う。
まず俳優であるが、団十郎を除くと五代目菊五郎を第一に挙げなければならない。私は彼とは友人の家で二、三回同席したことがあるだけで、ふだんのことをあまり知らない。しかし彼は団十郎と違って如才なく、人の持ち物をほめて喜ばせたりする巧みさを持っていた。また座談がうまく得意の芸談を披露するのが好きだった。
芸にかけては苦心惨憺して、徹底的に自分の満足するところまで到達するのが彼の性癖だった。彼ほど芸に凝った俳優は近代にはほとんどいなかったのではないか。彼が団十郎と肩を並べたのもそのためだったろう。
当時、世間では団菊左といって、市川左団次も併せてこう称した。ただ、いかに左団次が、押し出しもよろし、調子もよろしのさっぱりした芸風で、丸橋忠弥や高野長英を演じるとき、こせこせせずにまことに清々しい気分があったからといっても、団、菊には一歩譲らざるを得なかったのは事実だ。しかしまあ、三人三様の特色があるということで、こう並び称したのであろう。
私などは、とかく故人を褒めるようでいけないが、この三人の俳優の全盛時代を見ているため、幸か不幸か、その後の歌舞伎役者を見ても眼中に残っている団、菊、左と比べてしまいどうしても彼らに匹敵するような会心の至芸を見ることができない。思うに、彼らは、徳川時代から伝わってきた歌舞伎役者の最終幕を飾ったのだと言い切ってよかろう。
明治中期の芸人のなかでわたしがいちばん傾倒したのは、人情話では三遊亭円朝、講談では桃川如燕と松林柏円、常磐津では林中、清元ではお葉であった。
円朝は若いころ、赤い襦袢を来て寄席の壇上で踊りを踊ったこともあったそうだが、中年以降は自ら人情話を組み立て、自己の工夫によって老若貴賤の男女の声色を使い分ける巧みな技で、きく人の喜怒哀楽をそそり大きな感動を呼んだ。彼のやった塩原多助、牡丹灯籠、荻江露友などの人情話は芝居にまでなり、団菊左が演じたことさえあった。
彼はおりおりに地方を旅行して、こまかに田舎の情景を観察した。そして、茶店の老婆の言動やその店に並べてあった駄菓子の種類までを、ことごとく出し物の中に織り込むので、実際の情景を見ているように切々と人を感動させたのである。
ある時、五代目菊五郎が塩原多助を演じたとき、その芝居と円朝の話のどちらが面白いかと私に質問した人がいた。私は、むろん話のほうが面白いと答えた。なぜかといえば、芝居では、多助だけが菊五郎で、そのほかはみなそれ以下の役者だが、円朝の話では登場人物の全員を円朝ひとりでやるのだから。
井上馨侯爵も円朝びいきでよく彼を呼びよせられたので私も幾度となく同席したが、彼は茶人でもあり、所持品の中には後年に入札市場で高価に売れたものもあった。そんなことからもただの平凡な芸人ではなかったということがわかる。
円朝はスラリとしたやせ形の男だったが、桃川如燕は引退した力士のようにデクデクと太った大入道だった。得意の水戸黄門仁政録などを演じるときは野太い声で堂々と語り続け、万座を圧倒する力量があった。
明治二十六(1893)年ごろ、大阪の外山修造氏が、中之島に建てた新宅披露に彼をわざわざ東京から呼び寄せたことがあった。そのころが如燕の全盛時代で、彼は大阪行きの条件として身のまわりの世話をする若い女性をつけるように言ったそうだ。その頃いかに気力旺盛であったかがうかがえる。
松林伯円は色が黒く、頬骨が高く、しかも頑丈な骨格で、よく泥棒の話題を演じたので「泥棒伯円」とあだ名されていた。容貌もまた、人殺しでもしそうな険悪さだった。だみ声で、最初は聞き苦しく思えるのだが、だんだん演じ進むにしたがって顔色と声があいまって、いかにもものすごい感じを起こさせた。これは彼独特の芸の力だった。
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