【箒のあと(全) 目次ページへ】【現代文になおすときの方針

八十四   助六の古式(上巻286頁)

 平岡吟舟翁が平岡大尽と呼ばれるようになったのは、江戸気分がたっぷりで、文化文政のころ(注・文化180418、文政181831の江戸で大通ぶりを見せた浅草札差旦那のように、みずから作詩、作曲、振付までやり、新柳二橋(注・新橋と柳橋の花柳界)の茶屋という茶屋で何年にもわたり遊興し、自作の新曲を謡わせ舞わせるということがあったからでもあろう。しかし大尽の名に一番ふさわしかったのが次の一事である。
 九代目市川十郎が歌舞伎座で助六を演じたときのことである。文化年間に、抱一上人(注・酒井抱一)がみずから興行を行ったと言い伝えられている古式にならい、助六地方(注・じかた)河東節連中を繰り出させたのである。抱一上人は姫路酒井家の次男ながら、大名家の窮屈さを嫌い、浄土真宗の僧籍にはいり、上手に琳派の絵を描くかたわら河東節も好んでいた。

 文化年間に助六の興行があったとき、自画の牡丹の花を表紙にした助六の歌本を発行し、谷文晁といっしょに、真ん中が助六、左右に富士山と筑波山という三幅対を寄せ合い描きした。その幅はいまでも好事家の手元に残り当時の豪勢ぶりを伝えている。
 明治二十九(1896)年の助六には、当時の古式をそのままに採用するというので、その手始めが、十郎から平岡の旦那に河東節御連中の依頼状を送る、というものだった。連中会場として歌舞伎座の茶屋、三洲家を使い、その二階に陣取っている吟舟翁のもとに、助六芝居の頭取である八がその依頼状を持参する。するとそこで吟舟翁が「願是通聞届候(注・願いの通り聞き届けそうろう)」という指令を発するという、まことに豪勢な威光を示したのである。
 こうして平岡の選抜した、いわゆる河東節連中には、三味線方の河東節家元、山彦秀次郎をタテとして、そのほかに婦人が二名、地語りは芳村伊十郎、都魚中、清元弥生太夫、清元魚見太夫など。それに素人連中として、のろま人形頭取の三富、浜町の小常盤主人の依田らが加わった。

 指物師の浪花家も三洲家に陣取り、興行中には連日、抹茶のお点前を引き受けることになった。
 また総ざらいは築地の瓢家で行った。連中それぞれの語り場所をすべて吟舟翁が指示し、いよいよ万端の準備が整った。
 この連中一同には、魚葉牡丹(注・杏葉牡丹、ぎょようぼたんのことか。杏葉牡丹は、助六で用いる成田屋の替え紋)の紋付に、金色とお納戸色の市松模様の帯を配り、楽屋入りのときには高さ四寸(注・約12センチ)の草履をはかせた。
 ここまで古式そのままを採用したのは、このときの狂言が最後だったと思われる。これまた江戸気分の最後の名残りだった。
 このときの歌舞伎座の座主は田村成義で、二番目狂言では、五代目菊五郎が斗々屋の茶碗(注・三題噺魚屋茶碗)を出した。福地桜痴居士がその摺り物の讃を書いたのに対して、吟舟翁は十郎に次のような新作の端唄を贈った。

 春霞たつや名に負ふ江戸桜、だてな姿に鉢巻を、すぎし頃より待ちわびし、甲斐ありておちこちに、噂もよしやよし原に、思ひそめたる仲の町、箱提灯も色めきて、ぬしのゑがほを三升うれしさ


富永の毒舌(上巻288頁)

 富永冬樹氏は旧幕府旗本の家系で、この人もまた生粋の江戸っ子だった。明治四(1871)年に平岡吟舟と同船でアメリカに渡り帰国後は長年裁判官を勤めていた。一族には、東京高等商業学校の初代校長で銅像もできている令弟の矢野次郎(注・二郎とも)氏があり、令妹は、内助の功の多かった益田孝男爵夫人(注・益田栄子)である。みな江戸前の才子肌で、口から生まれたような人間だったが、なかでも富永氏は皮肉な批評の名人で、すこし毒を含んでいるのだがあとあとまで話のたねになる名言が多かった。
 明治三十(1897)年私が麹町区一番町に住んでいたとき、隣家の米倉一平氏を見舞っての帰り道に私の家に寄られたことがあった。そのときも、まじめな顔をして私に、今、米倉を見舞ってきたが、からだじゅうに毒気が回っているので、蛭を掛けてもその蛭がみなポロポロと落ちてしまう、ところでその蛭を顕微鏡で覗いてみたら、みな鼻をつまんでいたそうだ、と言って、からからと笑われた。
 また、大江卓、加藤正義、近藤廉平、益田克徳などという連中が、自宅で一品持ち寄りの会を順番にやっていたことがあったが、あるとき木挽町の梅浦精一氏の会に出席した富永氏は声をひそめて私たちに向かい、「梅浦の家の玄関には、なにやら仏像が一体飾ってあるが、その印の結び方がどうも変だ。右の手は親指と人差し指で丸を作り、左のほうは手のひらを前に差し出しているので、なんとやら、丸をくれろと言っているようだが、君たちはどう思うね」と言い終わるや、微苦笑を洩らされた。ほかにも、富永氏には数々の名言があるが、この二例は富永流の毒舌として、もっとも有名なものであった。
 


【箒のあと(全)・
目次へ】【箒のあと・次ページへ