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 八十二 
生兵法の側杖
(上巻279
頁)

 明治二十八、九(18956)年ごろから私は、仕事上のことがらで朝吹柴庵英二とたびたび会う機会がふえた。用件以外でも、私と柴庵は、たがいに道具道楽の駆け出しの意気盛んなで、寄ると触わるとしまいには道具の話でしめくくるのが常だった。
 柴庵はもともと頭もよく世渡りもうまい人だったので、明治十(1877)年前後に紳商のあいだで花がるた(注・花札)がはやった時には、いちはやく練習を積みたちまちその道の達人となった今度、三井財閥の一員になってみると主人も番頭もみな美術好きである。ならばさっそくこの道を研究しなくてなるまいという気持ちも強かったのかもしれないが、とにかく熱心に道具漁りを始めた。
 そういうところが私と一致し、日曜日になると本町の田澤静雲という道具屋に押しかけたりした。そこで最初に目をつけたのは応挙筆の松鶴図六枚折屏風一双だった。当時ひとりで買うにはあまりにも荷が重すぎるのでふたりで共有にしたのだが、これが偽物とわかったことがあった。だがこれですっかりへこたれるかと思いきや、ふたりともより一層熱心になっていったのである。

 明治三十(1897)年ごろには、ふたりとももうひとかどの鑑定家になったつもりでいた。
 さて、その二、三年前から三井鉱山会社の理事になり赤坂丹後町に住んでいた団琢磨氏
のち男爵が、遅れ馳せながら美術に関心を持ったらしい。われわれから見れば最近田舎から出てきた後進で、美術品の鑑識にかけてはわれわれはふたりともはるかに大先輩であると信じていた。

 団氏が、われわれに多少はお世辞のつもりだったのか、何かおもしろい絵画があったら僕にも知らせてほしいと言われたので、ちょうどそのころ大阪のある道具商が持ってきた宋の李迪(注・りてき)筆だったと記憶している】の山水中鷺図の二幅対が最近ではあまり見ない珍品だということでふたりの鑑定が一致したので、これを団氏に勧めることにした。
 団氏は両先輩の保証付きということで一も二もなくこれを買うことにした。ところがそれから二、三か月して大阪から続々と怪しげな宋、元の絵画が到来し、あちこちでわれわれの目に触れることになった。よくよく考えてみれば、このまえ団氏に勧めた品もやはりこの手のものなのである。柴庵と私はこっそりと顔を見合わせ非常に恐縮したものの、先輩大鑑定家としての手前、団氏に対してかくかくしかじかと打ち明けるわけにもいかないのであった。
 ふたりはしっかり口をつぐみ、団氏もこのことについては一言も語らず、最近までは三人以外にこのこと知る者はなかったのであるが、柴庵翁もすでに亡くなり、団男爵も不慮の兇変にたおれ、今は私ひとりだけが残ったから、このほど団男爵に関する座談会の席ではじめてこの話を披露したところだ狸庵(注・団琢磨)、柴庵(注・朝吹英二)の両老は、はたして地下で、どんな思いをされているだろうか。
 


道具の虎の巻
(上巻281
頁)

 朝吹柴庵翁が美術鑑定において、のちのちまでの語り草になるような数々の逸話を残したことはけっして偶然ではないのである。前項に記した宋画の偽物をあっせんしてしまったことも一層の研究意欲をかきたてたのであろうか、そのころから、私をはじめとする親しい友人にも一切無言で、両国橋近くの薬研堀の一角に住んでいた小川元蔵という道具商のところに出かけて研究に励むようになった。

 まるで張良が黄石公から兵書の六韜三略を伝授されたように柴庵は元蔵から道具鑑定の虎の巻を伝授されたのである。かたや橋、かたや両国橋の違いはあったが、その熱心さはなんら変わるところがなかった。

 この道具商の元蔵は姓を小川といい、通称は道元として知られ江戸っ子気性の強い人物だった。維新前には金座の誉田源左衛門のひいきを受けたが、その理由が普通ではない。浅草の道具市で、祥瑞沓鉢しょんずいくつはちの糶売(注・ちょうばい。競り売り)があったとき、売り手が五十両と言ったのを遠くから見ていた道元が、よしきたと競り落とし、やがてこれを手にすると、「なんのこんな偽物が…」と言うやいなや、大地にたたきつけて壊してしまった。それをひそかに見ていた誉田が気に入り、道元はそれから同家の出入りの道具商になったという経歴を持つのである。明治の初めには岩崎弥之助男爵の愛顧も受け、男爵は彼の鑑定を受けてから茶器を買ったので所蔵品には名品が多いと言われている。
 柴庵はそのような老道具商を見込んだのである。暇さえあれば同店に入りびたり、道元の講釈をきいた。そのうえ、柴庵は友人のあいだでも有名なほど記憶力がいいので、道元からきいた講釈を後日ほうぼうの茶会で実地に応用し、しばしば友人を驚かせたものだ。

 そのいちばん有名なのが、益田鈍翁【孝男爵の茶会でのことだった。その茶会で丹波焼の茶碗を出されたとき、柴庵は一見して、これは有名鬼ヶ城にちがいない、と鑑定した。鈍翁は非常に驚き、君はいかにしてそのようなことを知っているのかと尋ねると、これは前に道元に聴いたのであるが、丹波焼には、鬼ヶ城という頑丈な造りの名物茶碗が一点あるだけだということだったので、きっとそれに違いないと鑑定したのだといい、非常な名誉を博したのである。
 このような類の名誉談はいまでも友人のあいだに語り伝えられているから、またのちほどに追い追い披露させてもらうことにしよう。


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