八十 千葉勝と紅艶(上巻272頁)
千葉勝と紅艶(注・益田英作。益田鈍翁の末弟)は、道具の取引における奇人どうしの鉢合わせともいうべきものだった。なかには今日もなお友人のあいだで思い出として残るエピソードがあるので、その最たるものをいくつか紹介してみたい。
千葉勝五郎というのは、明治の初めから中期まで、先代の守田勘彌の資金提供者として新富座や歌舞伎座での興行を後援した高利貸のことだと思っている人も多いと思うが、じっさいには質屋もしくは金貸しであると同時に、押しも押されぬ相当の茶人でもあった。
明治十三(1880)年ごろの茶道復興の黎明期に、小西義敬、安田善次郎、渡辺驥らと茶を介しての交際があった。
質屋業で名器の質流れがあるとそれを自分で所蔵したため、おりにふれてこれを使用し、当時においては人が目をみはるような茶会を催したこともあった。
この人がいっぷう変わっていたのは、質屋、金貸しという極度に俗人的な身分でありながら、あるときには悟りきった禅坊主のような行動がある一方で、金をためることにかけては、いわゆる爪に灯をともすようなやり方をすることだった。塵ひとつといえども無駄にすることはなかったし、奉公人にも非常にやかましくいさめていたということだった。
金を借りに来る人があると、その望みをきき、この人に金を貸すに足る資格があるかどうかを見極めたうえで承諾するのを常をした。
その試験というのは、口の小さい菓子壺に金平糖をいれお茶といっしょに出す。事情をわきまえた客は絶対に手を出さないが、もしも金平糖をひとつでも食べたが最後、もはやその金貸談判は成立しなかったそうだ。
また千葉勝は、ふだんよく土蔵にはいって、そのころたくさん流通していた一円紙幣のしわを伸ばすのを楽しみにしていたという。そして、しわを伸ばした紙幣は、ある名器のはいっていた鎌倉時代の蒔絵手箱のなかに積み重ね、それがいっぱいになるとまたその次にとりかかるのを日課としていた。その手箱というのが非常な名器なので、のちにある道具商が譲り受け、今の加藤正治君の先代である加藤正義翁におさめたそうだ。
またすこし大げさな話をしよう。彼が大病にかかりほとんど死にかけているときに医者が注射をしようとしたところ、彼はむっくりと起き上がり、その注射代はいくらかと尋ねたところそれがあまりにも高いので見合わせてほしいと言い出したそうで、一同唖然として二の句が継げなかったという。
このようにして彼は一代のあいだに何百万円という財産を積み上げたのであるが、これを継ぐ実子がいない。ある人が彼に向かい、君のように大金を残す場合、後始末について遺言しないのは賢明ではないのではないかと忠告したところ、彼は、いや、この金は私が楽しんだあとのカスなので、死んだあとは誰が取ろうと私は構いません、と平然としていたのだそうだ。
以上は千葉勝について、知人のあいだに伝えられているエピソードである。彼は質屋だったので、維新後に二束三文で売買された大名道具の質流れであるとか、今の大善の祖父にあたる当時の東京で一級の目利きだと言われていた道具商から買い入れた道具などを多数所持していた。(注・「今の大善」とは道具商、伊丹元七の子である揚山・伊丹信太郎のことだろう。その祖父とは、元七の父である大和屋・伊丹善蔵、通称大善。伊丹元七は、通称大元[だいもと]と呼ばれた)
それを見込んだのが、かの益田紅艶だ。彼は根っからの道具好きで、若年にもかかわらず名器にかけては大胆不敵な離れ業を演じいつも玄人を驚かせていた。彼は胸にある思いを秘め、へりくだった言葉で千葉勝に近づいた。それから何年にもわたり幾多の名器を譲りうけたのである。
紅艶もまた一種の変人であり人の気心を非常に鋭く察することができる男だったから、例の金平糖などにはもちろん手をつけたりしなかった。着物もごつごつした木綿ものを着用し、言葉遣いや物腰など、すべてにおいて千葉勝の気に入るようにして、ご所蔵のお道具を拝見したいと申し込む。そして、欲しくないものは非常にほめ、是非とも買い取ろうというものは鼻先であしらう、というような虚々実々の駆け引きをくりひろげ、さすがの千葉勝をも煙に巻いて、とうとう紅艶を養子にしたいと言わせるまでに惚れこませることに成功した。
こうして彼が千葉勝から譲り受けた道具はほとんど数が知れないほどだったが、なかでも伊賀擂座(注・るいざ)花入は、この種類の品のなかでももっとも優秀なもので、紅艶は自分でも天下第一であると言っていた。
この花入から思いついて、その後伊賀焼の陶器の収集に着手し、茶入、茶碗、水指、建水などのすべてを伊賀揃いにした茶会を催して、客に「伊賀にも」と言わせて感服させた。なんといっても主役にあの擂座花入が控えているのだから、これ以上の伊賀揃えはありえないだろうと思われたものだ。
この花入は、紅艶が「わが魂」だとも見なしたほどの愛器だったので、相続した弘君もこれを大切に保存して長く家宝として伝えるということだ。
この花入だけでなく、ほかに千葉と紅艶のあいだに授受のあった名器の数々は、明治中期における道具移動史を語るうえで、けっして軽く見過ごすことができないものであると思う。
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