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 七十九
恋の破産者(上巻270頁)

 益田英作は、長兄に孝男爵、次兄に克徳という大家を持ち、兄弟三人いずれも稀代の数寄者ぞろいである。中でも英作は駄々っ子で稚気に富み、若年のころから奇行が多く、その傑作に至っては人を抱腹絶倒させた。言ってみれば、明治後半から大正初期にかけて朝吹柴庵と負けず劣らずの愛嬌者の双璧であった。
 英作はかつて芝公園に住んでいたので、友人が公園、公園、と呼んだため、その音に因んでみずから紅艶と称した。茶事においてはふたりの兄にすこしおくれて出発したが、趣向においてはむしろ一歩先を行き、奇抜な茶会を催して人を驚かすことが多かった。しかしそのことは後段に譲るとして、はまず、彼が結婚前に起こした恋愛の失敗について一、二のエピソードを物語ることにしよう。
 紅艶は三十前後から非常に肥満し、腹はでっぷり布袋腹、盆の窪(注・首のうしろ)の肉塊は二段になり、色白で顔が紅潮し愛嬌たっぷりの目尻が下がっていた。極度の近眼で、非常なおっちょこちょいな性格のため、よくいろんなものを見間違えてとんでもない滑稽なことをやってしまうことがあった。

 ある実業家の次女を見初めたときには、おりおり彼女を訪問し、西洋風にバラの花などを贈っていい気になっていたのだが、その令嬢が逗子の別荘に避暑中、大雨で交通が途絶したことがあった。その報道を聞き、当時鎌倉にいた紅艶は、まずは逗子にいる令嬢を見舞わなくてはいけないと別荘のそばまで駆けつけたが、あたりは浸水して一面洪水のようになっている。やむをえず衣服を脱ぎ捨て頭上に載せ、真っ裸で洪水のなかを進んでいった。その姿は、布袋和尚の川渡りそのままだった。
 別荘の縁先に立ってこれを眺めていた令嬢は、それがまぎれもなく紅艶だとわかると、オヤと驚いた声を残して障子の内側に逃げ込んだ。その後、紅艶から正式に結婚を申し込まれたとき令嬢は目を伏せて涙ぐみ、「わらわ(注・わたし)は尼になります」と言い出したとのことで、この恋愛はとうとう失敗に終わったのであった。
 もうひとつの失敗は、明治二十九(1896)年の歌舞伎座で十郎が助六を興行したときのことである。新橋烏森の濱野家という茶屋の主婦の養女に、おきんという美少女がいた。まだ歳は十四歳くらいだったのを紅艶が見初め、僕は今からあの娘を自宅に引き取って自分で一切の教育をし、日本において新しい結婚の手本を作ってみせよう、ということで濱野家主婦に頼み込み、とりあえずおきんを浜町の自宅に引き取って懇切丁寧に三拝九拝のごきげんとりをして手なずけるつもりだった。ところがおきんもなかなかのわがまま者で紅艶は大弱りしたという。

 これを、ある江戸っ子の通人が見て、まだそのころまで江戸趣味の名残りで残っていた悪摺(注・あくずり。戯作者や好事家が、事件をネタにしてからかいをこめて流した印刷物)にした。大きな象の形をした紅艶の背中に普賢菩薩のようなハイカラ娘が馬乗りになっている絵の上に「今ぢゃ普賢も開化してザンギリ頭の象に乗る」といれて、硬軟とりどりの各方面にばらまいたので一時期大評判になったものだった。
 この小普賢はいつしか象を置き去りにして、とうとう濱野家に逃げ帰った。それが、後年の日向きん子夫人(注・のちの林きむ子)なのである。
 しかしながら、紅艶が最後には駒子夫人を得てかえって恋の大成功者になったということは、ここで付け加えておかなくてはならないだろう。


紅艶の暹羅
(シャム)土産(上巻270
頁)

 益田紅艶は若いころ長兄がやっていた三井物産会社にはいり、ロンドン、上海の支店などに勤務していた。奇矯飄逸な人となりだったので、几帳面な会社員の仕事を続けることをよしとしなかった。ほどなく退社し独立して商売口を見つけようと、明治三十一、二(189899)年ごろに一商人としてシャム(注・現在のタイ)行きを試みた。

 その目的は、むかし「南蛮もの」と総称されて日本に輸入された器、道具、織物のなかに産地の不明なものがあるので、それを特定したいということや、徳川時代の初期には一時伝来していた香木が、その後なぜかまったく途絶えているのは遺憾であるということで、これまで気にかかっていたそのような疑問点を解決することにあった。
 さてシャムにわたり、いろいろ探ったところ、香木は現地においても非常に貴重とされているが、だいたいが沈香の類で、昔日本に渡来したような伽羅の種類は非常に少ないということがわかった。
 織物のほうも、紅艶の次兄の克徳氏が少し前にヨーロッパからの帰り道にカルカッタで見つけた掘り出し物で、その後、益田広東【かんとん】と名づけたような時代ものの広東縞はほとんど一点も見つからなかった。
 以上の点では失敗だったわけだが、ここにひとつの大きな発見があった。昔、茶人が宋胡録すんころくと呼んでいた南洋伝来の焼き物があった。土の地肌が粗く、鼠色の地に黒い釉薬が大雑把にかかって模様を作っている焼きもので、それまでこの器の産地がわかっていなかった。ところが今回、紅艶がシャムで調査したときに、同地にスンコロ―という地名があり、そのころこのあたりの古陶窯の址から宋胡録と同じような陶器が発掘されていることがわかったのである。紅艶のシャム入りのおかげで長年の疑問がついに解決を見るという偉業がなされたわけだ。

 こうして鬼ヶ島に渡った桃太郎のように、かずかずの土産物を持ち帰った紅艶は、根岸の御隠殿(注・ごいんでん。輪王寺宮の別邸があった)にある次兄、克徳の無為庵において大茶会を催した。床の間には清巌筆の地獄の二字を掛け、天狗の鼻になぞらえたのか、銘を鞍馬山という茶杓を使ってさかんに気焔を吐いた。これも紅艶の独壇場で、他の追随を許さないものがあった。


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