七十七 東北機場廻り(上巻261頁)
私は明治二十八(1895)年の八月から三井呉服店の改革に着手し、約一年間で店内の整理も一段落した。そこで、東北の織物の産地まわりをすることにした。私のような学生上がりの人間が何らかの意味ある仕事をしようと思うとき、金儲けのことだけでなく、なんらかの理想を持つものである。私も今、そうした理想を胸に東北の織物産地を見渡してみたのである。
これまでの呉服問屋、小売店は産地から商品を仕入れるとき、縞柄や模様柄を一から注文して製造してもらうのではなく、ただ出来合いのものからほしいものを選ぶというだけだった。すると産地の織物業者としては失敗を恐れて、どれもこれも同じような平凡な品物を生産するばかりで新しいデザインに挑戦するということがなくなってゆく。そのうえ、呉服店は織元と直接取引をするのではなく、織物業者と呉服店のあいだにはいる織物仲買人の手を経て買い取るので、仲買人は手数料をより多く得るために織元を苦しめることになる。すると織元はこの苦しみから逃れるために粗製濫造に走るという弊害が現れる。これが東北の織物産地における一般的な問題だった。
私は織物仲買人によらず、織者業者と直接取引することにした。また、こちらから新しいデザインを提示し、かれらが安心して優良な品を製造できるようにすることが小売業者のためにもなり、多数の機織り業者のためにもなり、ひいては国家の利益のためになるだろうという理想を実行しようとしたのである。仕入係の山岡才次郎と、意匠係の福井江亭、調査係の中村利器太郎を連れ、明治二十九(1896)年七月二十八日に、まず仙台に向けて出発した。
仙台の主要な織物といえば、言うまでもなく仙台平である。藩祖である伊達政宗が、京都の職工の弥左衛門という者を呼び寄せて織らせたのを始まりとする。最初のころ、品質が精巧なため、精巧平と呼んでいたが、その後仙台で生産されることから仙台平とも呼ぶようになった。
封建時代に伊達家がこの袴の生地を珍重したのは、参勤交代の久々の江戸入りのとき、国産品を土産物にしたからである。それは当時の大名の習慣だったので、交際術に長じた政宗や、そのほか、伊達姿、伊達模様などと形容されるような派手を好む藩主たちが、仙台平を贈答用に使ったのはまったく自然なことだったにちがいない。
ところが維新後に、新潟地方に村上平、五泉平などという類似した割安の品が出てきたため、そのころの仙台平の一年間の産額はわずか七千反にも達しないという衰退の極致にあった。そこで私は、機元である伊藤清慎、藤崎三郎助の二軒と取引契約を結び、ついでながら松島見学で、あの瑞巌寺も訪れ、伊達政宗の木像を拝観し、そのとき次の七言絶句二首をなした。
瑞巌寺謁貞山公像
軍装凛々見威容 鵬翼図南独眼竜 縦不雄飛伸大志 猶余六十万提封
奥州草木挟風雲 独眼竜名天下聞 試較群雄胸量大 猿郎以外我推君
われわれはその後、仙台から福島を経由して米沢に赴き、同地の糸織の機場を視察した。糸織というのは、有名な上杉鷹山公が丹後の商人である山家屋清兵衛という者に命じ久六という機職人を連れ帰り、横麻裃地の竜の模様を織らせたのがはじまりだそうだ。このとき、高橋嘉右衛門、中村伊右衛門のふたりが、さらに進んだ縞物を織ろうとし、久六との熱心な話し合いの結果、丹後から縮緬織りの機械を取り寄せ、そのころ甲州で生産されていた双糸織【もろいとおり】の模造をした。その成績が良好で、しまいにはここの産物になるにいたったのだそうだ。
このころ山形県の書記官をつとめていたのが、今日、政友会の長である床次竹次郎君だった。私は米沢の機業の振興について彼と懇談したことをすっかり忘れていたが、このとき同行していた中村氏が記した紀行文によって偶然にもその記憶がよみがえった次第である。
米沢から人力車で山形と新潟の境の山道を越え、途中一泊して山辺里(注・さべり)に行き、小田長四郎氏の袴地工場を視察してから、小田氏とともに瀬波から小さな蒸気船で新潟に出た。
新潟では、そのころの便船の関係で、同地の花柳界の衣服や髪飾りがすべて京都風をまねていることに驚いて、二泊して、また改めて三井呉服店から出張販売する計画を立てたりもした。さすがに北越の歓楽街のことだけあって、鍋茶屋、行形などという旗亭(注・料理店)に、綺麗に着飾った娘子軍(注・じょうしぐん。中国の女だけの編成部隊。転じて風俗業の女の群れ)の行進するさまは、韓愈(原文「韓退之」)がいうところの「越女一笑三年留」さながらの趣だった。近頃ときどき名前をきく舞踏家の藤蔭静江老嬢なども、当時は十七、八の売れっ子だった。ここで一首なくては始まらないと思い、戯れに次のような七言絶句を作ってみた。
新潟竹枝
扶郎無力下紅楼 話別喃々如有愁 万代橋頭分手処 秋潮空送遠帰舟
かくして、われわれの一行は五泉、加茂、見付、栃尾などを経て小千谷に行った。どこでも機業者と直接に交渉して織物改良をお願いした。また、三井呉服店で開催する織物展覧会に優良品を出品してくれるように約束を取りつけてから帰京した。
この旅行が訪問先に与えたインパクトは予想外に大きかった。そういう時勢であったとはいいながら、東北地方の機業がこのころから目に見えて発展したことからも、この旅行の意義を検証することができたのである。
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