七十六 呉服小売法の変改(上巻257頁)
私はかねてから西洋の百貨店方式を用いて日本の小売業の商法を一大革新してみたいという理想を抱いていたが、維新後、明治中期にいたるまでに日本に輸入された西洋文明は、政治、軍事、教育などの分野に限られており、まだ民間の商工業にまではいきわたっていなかった。
呉服やそのほかの雑貨の小売りの商売においては徳川時代そのままの状態を続けていたから、三越とてご多分にもれず、番頭といえば「しらくも頭の、はな垂れ」のころから店に雇われている小僧が年季の順に出世するだけだったし、例の、帳場での座売りという方法にどっぷりつかって改革など夢にも思っていなかった。そういう彼らから見れば、呉服小売りになんの経験もないモダン書生が突然店に飛び込んできて自分たちに指図するとはなにごとだと、心中おだやかでなかったのは当然である。
このころの店の最長老は山岡正次という六十前後の老人だった。その次が、専務兼支配人の藤村喜七、その次が、森本半次郎、井上嘉四郎、山岡才次郎という面々だった。前述(注・74を参照)のとおり私の改革は帳簿の改正と売り場の変更が二大ポイントだったので、まずは簿記の知識のある人が必要だった。
そこで、東京商業学校出身の滝沢吉三郎を三井銀行から連れてくることにし、また慶應義塾出身の中村利器太郎、藤田一松、東京工業学校出身の笠原健一、アメリカ帰りの田中忠三郎などという学生上がりを次々に採用し、これまでの大福帳を簿記法に改めた。同時におおぜいの学生を見習いとして売り場や仕入れ場へ配属し、彼らに少しずつ事務に精通してもらい、各方面での改革に手を伸ばそうとした。
もっとも、仕入れの仕事は何年もの熟練を必要とするので、番頭のなかでいちばん穏健で妥協性に富んでいるうえ、商品の取り扱いについても店内一の玄人と呼ばれていた藤村喜七氏を見込んでその一切の責任を任せた。
売り場の変更については私自身が工夫を凝らした。当時の三越の建物は総二階建てで、二階は何部屋かに区切って、お得意様や地方から婚礼の支度の買い物に来るお客様に食事を差し上げる場所になっていた。その仕切りを取り払って二階全部をひとつの四角い部屋にしたのである。天井が低く光線の具合があまりよくなかったが、とにかくここを陳列場にして十数台の飾り箱を並べることにした。そのなかにいろいろな呉服を陳列し客が自由に選べるようにしたのである。
はじめのうちは従来の売り場はそのままにしておいたのであるが、一度でもこの陳列場にやってきた人たちは、今までのように框のへりに腰かけて番頭の取り出す数点の商品で満足するということがなくなり、またたく間に陳列場のほうが大繁盛したのである。
ここを開設する前には、品物をあまりたくさん見せると客は迷って選ぶのに苦労するとか、品物をあまり日光にさらすとローズ物(注・ろうず=きずもの、不良品)が多くなるとか、そのほかにもいろいろな反対があったのだが、いかんせん「論より証拠」である。客が喜ぶのだから、この点について反対意見を言う余地はない。それを見て私は、以前洋服部だった西洋館と日本館のあいだに西館という名前の木造二階建ての陳列場を造り、ひとまず売り場の改革を終えた。
さて帳簿改革のほうも人員が揃うのを待ち着々と改革を進めていたが、もうひとつ、営業面で至急の革新が必要だったことがあった。それは、呉服の模様デザインの改良である。それまで東京の各呉服店では婦人服の裾模様を注文する場合、模様見本帳というものを用意して、そのなかから選んでもらう方式をとっていた。あるのは、こぼれ松葉、松の実散らし、折鶴、七宝尽くし、つなぎ麻の葉といった、徳川時代からずっと変わらないものばかりで、その染色や織り方の見本を見て作るだけなのである。また、夏服と冬服に特別な差があるわけでもない。そして年頃の令嬢と中年の婦人が、ほとんど同じ裾模様を使っている。しかも模様が地味なので、着物の下の低いところだけに柄があり、せっかく着物を新調しても他人の印象に残るわけでもない。どれを見ても同じなのだ。今のような、人がなんでも新しいものを競って求める時代にこのような流行遅れのやり方ではまずいので、さっそくこれを打破しようと思った。
そこで私は、染織物の模様改善を目的とする、意匠部という部門を新たに設けることにした。そこに、住吉派の老画家である片山貫道や、当時の新進画家の福井江亭、島崎柳塢、高橋玉淵らを雇い入れ、新たにいろいろな裾模様や長襦袢の模様などの見本を作った。あるいは、客の好みに応じてその場で新デザインを作成できるようにした。
また、染織物の生産地にも奮起をうながし、新デザインによる作品を奨励し、春と秋の二回、織物展覧会を開いてその技巧を競わせた。
以上が改革の概要である。その他のこまごましたことは省くことにするが、とにかくも、旧式の呉服店に対し破天荒な改革を行い、そのうえに例の女子店員も採用するなど、呉服小売り業界に大革命を起こしたのである。それゆえ、いっときは古くからの店員を驚愕させ、その反抗を招くことになったのは、まったく当然の成り行きであったといわざるを得ない。
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