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七十五 九代目十郎(上巻254頁)

 私は九代目団十郎と、明治十八(1885)年から彼が死去するまでのあいだずっと交際を続けていた。いわゆる合縁奇縁(注・不思議な縁のめぐりあわせ)というのだろうか、彼も私の訪問を喜んでくれて、しばらくご無沙汰するとすぐに伝言をよこしてくるので、は折にふれて彼の楽屋をたずねたり自宅をおとずれたりして芸談の交換をしたものだった。
 彼が芝居に出演するのは年に四、五回で、今日の役者が年中休みなしに出演があるために、色々な役の研究や工夫を積む余裕がないのとはずいぶん違っていたものだった。
 彼は芝居に出ていないときによく品川沖に出かけて、釣りをしながら役の演出方法を研究していた。その中から後世に残った型も少なくない。
 最近、古市公威男爵の話をきいたところによると、十郎の大星由良之介は、男爵の父上である藤之進翁をモデルにしたのだそうだ。翁は姫路藩の江戸御留守居で、浅草の札差や諸藩の御留守居役との交際が広く、いつもひいき役者をかかえ特に成田屋(注・十郎のこと)を愛顧していたのだそうだ。明治八、九年ごろに七十歳余りだったその古市翁の姿に十郎が目をつけたのである。五万五千石の城代家老と、十五万石酒井家の御留守居には、姿、身なり、人との接し方などに類似する点が多かったのであろう。十郎は翁の話し方や立ち居振る舞いに注目して、それを理想の由良之助像としたのだそうだ。
 これは十郎から直接話を聴き取った小室信夫氏と、十郎の弟子である新蔵からまた聴きした光妙寺三郎氏から、古市男爵が伝え聞いた実話だということだ。
 現在の古市男爵も威厳がありながら温和で、得意の能楽でも七騎落ち(注・源頼朝の敗走)の土肥次郎実平などをつとめるとまるで本人そのものになってしまうことから考えても、男爵の父上の藤之進翁の在りし日も、おそらく大石(ママ)由良之助のモデルとしてぴったりだったに違いなく、十郎がそれに着眼したとは、さすがに目が高かったというしかない。
 彼はまた、役ごとの衣装、その模様、持ち物などにも留意し、有職家(注・ゆうそくか。朝廷や公家の儀式や行事の典故に通じている人)に、十分に故実について質問しなければ気がすまないという意気込みを持っていた。助六狂言では、帯地を黄色とお納戸色(注・灰緑がかった青色)の市松模様にし三井呉服店に注文したのであるが、彼ほどに有職模様や衣装、持ち物、小道具についての広い知識を持っている人はいなかった。
 座談に関しては舞台上でせりふを言うようには流暢ではなかったが、話好きで、自分の研究したことをぽつぽつ話し出したりすると、楽屋で次の幕の支度にかかるのを忘れてたびたび番頭から注意されたりしていた。
 彼には特別に学問があったわけではない。しかし俳画を描き、俳句を作り、記憶力がよく、歴史上の人物の性格やエピソードなどを話すときにとても豊富な材料を持っていた。
 またこんなこともあった。「高時」の天狗舞の場面で、天狗に引きずり回されて、しまいに気絶するところがあるが、その気絶して倒れているあいだに、見物席の二の側にいた観客がなにかおもしろそうに話しているのをきいていたら、多分蛎殻町あたりの米相場師だったらしく、「してみれば、北条の家は今のおれたちの相場のように、安い時に儲かって高い時に損したというわけだな」とけらけら笑っていたそうで、「なるほど北条は、泰時に始まり、高時で滅びたので、これはなかなかうまいことを言われるな、と思いました」などと言っていた。私はそんなことにまで気がついているのかと感心してしまった。
 あるとき、私は十郎を有楽町の三井集会所に招いたことがあった。時事新報社社長の福澤捨次郎氏や下村善右衛門氏も同時に相客として招いた席だったのだが、十郎は、弟子の八、升蔵のふたりを連れてきており座興として即興芝居を見せてくれた。これではどちらがご馳走したのかわからないといって、一同大笑いになったものだ。
 彼は、役者の習慣なのかそれとも性格的なものかは知らないが、貧乏にまったく頓着しなかった。明治十七、八(18845)年ごろ、新富座の頭取であった守田勘弥が借金で首が回らなくなっているのに加えて、そのころ十郎が創意工夫した活歴芝居がさんざんな不入りのため金が完全に底をつき、十郎が毎日はいりにいっていた木挽町の塩風呂の銭湯代のつけが、たまりにたまって三十六円になってしまった。そのこと評判になっいたのだが、彼はその話をある芝居のせりふのあいだに披露して観客をおおいに笑わせたのである。
 その後、井上馨侯爵が彼をひいきにし、例の世話好きを見せて借金を整理し、金銭のうえで守田らと縁を切らせて彼の家計を立て直したので、晩年は余裕のある生活になったようだ。とくに大阪北の新地で劇場の新築開きのときに、当時としては破天荒の五万円という出演料を勝ち取ったので、茅ケ崎に別荘を建て安泰のうちに大往生をとげることができた。それもこれも井上侯爵の世話の力あってのことだったのではないかと思う。


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