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七十四  三越呉服店の改革(上巻251頁)

 明治二十八(1895)年日清戦争が大勝利で終わったあと、例の三国干渉で一時国内の士気を腐らせることもあったとはいえ、とにかく二億円の賠償金を得たので、戦後膨張の機運が全国のいたるところでみなぎり始めた。まるで、これまで頭上におおいかぶさっていたシナ(原文「支那」)からの圧迫という雲を払って晴天を見るような心持ちになったのである。事業が勃興し株式は騰貴し好景気の時代がやってきた。
 そのころ三井の幹部内に三越呉服店をどうするべきかという議論が持ち上がった。先祖伝来の事業ではあるが、三井ほどの存在がいまだに呉服小売業を続けているのは少し時代遅れではないかというのである。
 しかし当時の三井の老主人のなかには、少年時代に呉服店に勤め、お茶くみからはじめて手代、番頭までの仕事をのぼってきた者もあったので、廃業するのはもってのほかだということのようだった。
 しかしながらこのままで存続するのはどうもいただけないということで、大阪三井銀行支店ではじめて女子店員を採用するという新しいアイデアを試みたあの高橋を呼び寄せて改革に当たらせたらよかろうという誰かの提案が通り、中上川氏から委細の事情報告があった。私が二つ返事でそれを引き受けたことは言うまでもない。

 私にしてみれば三井銀行に勤務しているほうが仕事も立派だし世間体でも格上になるのだろうが、かつて「拝金宗」だの「商政一新」だのという商売論を著述した手前、新時代にふさわしい日本の小売業の革新に自分の力を試してみたいと思ったのだ。
 こうして足かけ三年住み慣れた大阪三井銀行の社宅を去って東京に戻り、加藤弘之博士の西隣りの麹町区二番町四十二番地四百五十坪ほどの邸宅に住むことになった。
 私が三越呉服店の改革を引き受けてすこしばかり自信があったのは、かつて茨城県多賀郡相田村の福田屋という田舎呉服店の丁稚として三年間奉公した経験があることと、明治二十一(1888)年にアメリカのフィラデルフィアのワナメーカー百貨店の組織研究をしたときに、日本の小売業でも最終的にはこの方法を採用しなければならないという考えを持っていたためだった。そこに偶然にも三越改革の話がきたのでこの分野で腕試しをすることになったわけだ。まことに奇遇であったと言わざるを得ない。
 当時の三越呉服店に乗り込んでその改革をするにあたり、店主は三井得右衛門(注・高信の次男)氏から源右衛門(注・新町三井家七代高辰か、未調査)氏に交代し、私は三井の理事という資格はそのままで三越呉服店の主任となった。
 さて、どこから改革の手をつけるかであったが、まず店のようすを見まわしてみた。今の三越本店と同じ場所の駿河町一番地の角に二階建ての店舗があり、丸に越の字の紺のれんが掛け連らねてあった。店の中には頑丈なけやきでできた框(注・かまち)が鍵の手(注・L字かコの字か?)型にめぐらしてあり、番頭が受け持つ売り場が十一か所ある。来客がなじみの番頭を見つけて注文を出すと、番頭はそこから大きな声を出して小僧や、なになにを持って来いと言う。すると小僧は倉庫から品物を四角い平板の上にのせて売り場に持ってくる。番頭がそれを受け取り顧客に見せる、という手順だった。
 なぜ紺のれんで店内を薄暗くしているのかというと、品物の見た目をよくするためだという。また、見せる品数をなるべく少なくして客を満足させることができるのが、有能な番頭だと言われていた。このあとにに実行した商品陳列方法から比べると、客にとっても店にとっても非常に不便きわまりない方法であるが、当時は買う側も売る側もそのような習慣をおかしいとも思わずこれを変えようなどとは思いもしていなかった。そこで私はまずこれを改革することにした。

 次は、あの大福帳を用いている帳簿の問題だった。大福帳では仕入れと売り上げの計算がはっきりせず、どれくらい仕入れてどれくら売ったのか、また半期末の在庫がどれくらいで、差し引きはどれくらいかということが一目瞭然にはわからない。紛失品があってもそれを知ることは難しかった。番頭の給料が少額なため、実生活の埋め合わせをするために商品をごまかすということも常習化していて、文明時代の商売方法としてはとても見逃すことができなかった。
 最初に改革の鉄拳をくだすのは、帳簿と店売り方法の二点であるということがはっきりした。そこで、着々とそれに取り掛かったのである。

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