七十三
謡曲稽古の発端(上巻243頁)
三井銀行大阪支店長として足かけ三年間大阪にいたときに、私は二種類の道楽に入門した。ひとつは能楽で、もうひとつは茶道である。
まず謡曲のほうから話すと、それは明治二十六(1893)年の暮れのことだったと思うが、岩崎久弥男爵が三菱銀行支店の視察のために来阪したときのことだ。当時の支店長の荘清次郎、同理事の寺西成器、日本銀行支店長の鶴原定吉氏と私が、大阪の料理店、灘万楼に招待された。
寺西氏は加賀の出身で加賀宝生流の達人だったから、宴もたけなわになると、久弥男爵が寺西氏に何か一曲謡ってはどうかと言われた。しかし寺西氏がしきりに謙遜しているので久弥男爵は高圧的な態度に出て、拙者の命令なのだからとくと謡われよ、と言い出される。そこで寺西氏は「松風」のロンギを謡ったのであるが、加賀流の少し鼻にかかる癖はあるものの、梁の上の塵も動かすようなすばらしい美声だった(注・中国の故事。魯(ろ)の虞公(ぐこう)という声のよい人が歌をうたうと、梁(はり)の上のちりまでが動いたという)。これには一同みな感心して喝采し、このときから私と鶴原氏、荘氏も謡曲を習ってみようという気になったのである。
このころ大阪に、宝生九郎の門下で名古屋出身の木村治一という六十歳くらいの専門家がいたのですぐに入門し、鶴原氏は謡曲だけを、私は仕舞も併せて稽古することになった。
それからは寺西氏を先生格にして、私、荘、鶴原の三人の自宅で順番に、約一年間練習を続けもした。そのあいだに、だんだんうまくなってきたと天狗になっていったが、松風のロンギのなかの「灘の汐くむうき身ぞ」というところを、宝生流では甲繰り(注・かんぐり=高音)で謡うので、初心者にはなかなかむずかしい。さすがの大天狗どももこれには閉口で、松風の謡曲が始まると、うまく灘を越せればいいのだがと、食べるものにまで注意し、前もって喉の養生をするというような大騒ぎだった。
私はこれをきっかけとして、謡曲から仕舞へ、仕舞から能楽へと深入りすることになった。その後東京に移ってからは、三井一家がみな梅若流なので、私も宝生から梅若に改宗することになった。
なお、このころに大阪の紳士のなかで謡曲を好まれたなかでは平瀬亀之助氏が群を抜いてすばらしく、氏は金剛流の家元を補佐したほどの玄人だったが、痩せぎすの体格に似ず、勧進帳などを謡えば、音吐朗々として一座を圧するほどであった。
藤田伝三郎男爵は、小柄で身長も五尺(注・約150センチ)に満たない小男だったので、その声もか細い低音で、あるときに平瀬亀之助氏と同席で「景清」の「松門ひとり閉ぢて」の一節を謡ったときなどは、平瀬の耳をつんざくような大声に対し、藤田の蚊の鳴くような低音が両極端の対照をなしていた。
藤田男爵はまた好んで仕舞を舞い、あるときに私が益田孝男爵と一緒に男爵の網島邸を訪問したとき、大得意で「遊行柳」の曲舞を見せられたものだが、地を謡っていた生一佐兵衛という先生の声が非常にききとりにくくほとんどきこえないところにもってきて、藤田男爵の声もまた例の蚊声であるから、一生懸命ふたりに耳を傾けても何を謡っているのやらわからず、藤田の門を辞しての帰り道、今日は親戚以上のおつとめをさせられたと、顔を見合わせて笑ったなどということもあった。
道具道楽の萌芽(上巻250頁)
私は母方の血筋を受けて子供のころから文学を好み、書画もきらいではなかったようで、十一、二歳のころ、生家にあった唯一の宝物だった立原杏所(注・たちはらきょうしょ。江戸後期の水戸藩の南画家)の秋山独歩の着色図が大好きで、これを床の間に掛けるときにはその前に座ってじっと見つめていたことがあったことを覚えている。
その後イギリスのリバプールに滞在中、名誉領事だったボウズ氏の日本美術館で、日本の書画骨董を勉強したことで絵画が非常に好きになった。十分とはいえない旅費の中からいくらかを割いて、イギリス、フランスの骨董店で油絵を三点買い、今でも記念に持っている。
明治二十三(1890)年三月ごろにはじめて井上馨侯爵の麻布鳥居坂を訪問し、床の間になにやら極彩色の仏画が掛かっていたのを熱心に見入っていた私を侯爵が見つけて、君はそんなに仏画が好きなのかと、怪訝さ半分、うれしさ半分の顔できかれたこともあった。
二十四(1891)年に三井銀行にはいり、東京本店で河村伝衛家の骨董品を処分する機会があったときに、そうしたものに一層の興味を覚えると同時におおいに鑑識眼も養うことができた。
その後大阪三井銀行支店長となって、平瀬、藤田、鴻池などの旧家に出入りするたびに、床の間にめずらしい幅が掛かっているのをみると自分でも欲しいと思うようになり、ソロソロと骨董狩りへ乗り出すことになった。
給料の余りでぼつぼつ絵画を買い始めたが、最初は当たり前に四条派のものから始めた。よく好んで藻刈舟を描き「儲かる一方(一鳳)」の語呂合わせで喜ばれて大阪で人気を博した森一鳳の「岩上の猿猴落花を眺むるの図」の、尺五絹本極彩色のまたとない傑作を四十円で手に入れたのだから、そのほかの道具の価格は推して知るべしであった。見つければ買い、見つければ買いしているうちに大阪滞在中にいっぱしの書画鑑定家になり、またコレクター(原文「収蔵家」)にもなったのである。
【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ】
コメント