七十一
名家に名器保蔵(上巻241頁)
われわれの先祖が数百年来保存してきた名物といわれる道具類は、じっさいどのようなものなのだろうか。難しく言うなら、わが国の国体に関連し、祖先崇拝の上での標的になり、国民道徳を維持するうえで欠かせないものだと思うが、いかがなものであろう。だがその辺の解説はしばらく置くことにして、今はわかりやすい説明をしよう。
名物道具はだれが所有しているかにかかわらず、すべて国家の工芸美術の模範である。国民がこれを重要視せずに、これらの大切な見本を失うことになれば、単に国宝が消滅するだけでなく、その国の工芸美術が衰亡してしまうということは当然の帰結だ。
維新の前には、将軍家や三百の大名家がこれらの名物を保護してくれていたが、将軍や大名がなくなってしまった今、誰がこれを保護するのであろうか。言うまでもなく国家、もしくは富豪や名家のほかにはそれができるものはないだろう。
私は欧米を巡歴している最中に各国の実状に触れてこの意見を持つようになった。そして今、規模は小さいながら、この主張を実現する機会に遭遇したのでそれをここに紹介してみることにする。
私が大阪の三井銀行支店に在勤中、三井家と姻戚関係のあった長田作兵衛の所蔵する道具が抵当流れになり、同店の二階建ての大きな土蔵に足の踏み場もないほどに詰め込んであった。この道具をどのように処分するかということが、私の赴任後まもなく持ち上がった問題だった。
私は名家の道具について前述のような意見を持っていただけでなく、本店にいたときに、河村(注・64に前出、第三十三銀行の河村伝衛)の道具を処分して、例の田村文琳が三百五銭に過ぎず、これらの名物を含んだ道具数百点の売上高がわずか数万円であったことから、長田の道具も今すぐに売却するとせいぜい十万円前後にしかならないだろうと思った。
三井も今では整理が軌道に乗り始め二十四(1891)年の恐慌のときとはだいぶようすが変わってきているので、わが国の名家であるという家格から言ってもそれ相応の書画骨董を所蔵すべきであると思った。
ついては、この抵当になった美術品を売却せずに全部三井に引き取り、同族十一家に分配するのが名器を保存する上策だとして長々とした意見書を書いた。これを中上川には送らずに、美術品についてもっとも理解のある物産会社首脳であった益田孝男爵に送ったところ、それが三井重役会の議題にのぼり全会一致で賛成を得た。
そこで道具を全部、京都の三井呉服店の倉庫に移し、三井八郎次郎男爵(注・南家、高弘、号松籟)が取り仕切り、抽選で十一家に分配することになった。
その抵当品のなかには、砧青磁袴腰香炉、応挙の郭公早苗三幅対、直径六寸(注・一寸は約三センチ)の水晶玉など、稀代の名品の数々があり、また藤田伝三郎男爵がかつて長田家で見て非常に称賛していた倪元璐(注・げいげんろ。明末の政治家、文人画家)の書幅もあり、今日の相場で見れば、おそらく当時の数十倍にはなっていることだろう。
幸いにも分散することもなく三井同族のなかにとどめておくことができたのも、そのころ私のなかに芽生え始めた道具愛好の気持ちが動いたもので、偶然のことではあったが今思っても快心の出来事だったと思うのである。
銀行に女子採用(上巻243頁)
私は明治二十七(1894)年、大阪の三井銀行支店に女子店員を採用するというアイデアを試験的に実行した。これは、前にアメリカのフィラデルフィアのワナメーカー百貨店を訪問したとき多くの女子店員を採用しているのを見て、日本でも商店で婦女子を採用する習慣を作らなくてはならないと思ったことがきっかけだ。その後、ヨーロッパ各国の商店でも同じような状況であったので、当時の日本においてはすこしばかり突飛な考えではあったが、まずは三井銀行で試験的にやってみようと思い立った。
年齢十六、七歳から二十五歳までの女子で、小学校卒業以上の学力のある者を募集し、まず勘定方に入れて、そろばん、紙幣の勘定に熟練させることを目標に、最初は七、八名採用し約一か月訓練を行った。その成績は予想外によく、紙幣の勘定などは男性店員に比べてもはるかに正確で速かったので、いよいよ実務にもついてもらうことになった。
ところが、公然と言う者はいないが、男性店員の中に女子の髪の毛のにおいが鼻について困るというような苦情が出てきた。私は店員全員を集めて欧米諸国の実状を説明し、日本においても国家経済の見地から女子の就業をすすめていかなければならないとして、断固として女子の雇用を進めた。
しかし女子店員の多くは未婚で、婚期が来ると退職してしまう者が多く、私が大阪支店を引き揚げたあとはあまり長く続かなかった。
しかし私がこのアイデアを大阪の三井銀行で試みたことは評判となって、高橋は西洋帰りの新知識人でいろいろな工夫をやるようなので、そのころ問題になっていた三越呉服店改革の適任者だということで三井幹部の意見が一致し、私は三井理事の資格で三越呉服店の改革の任に当たることになったのである。
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