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七十 在阪知友の思い出(上巻237頁)

 私が三井銀行支店長として足かけ三年間大阪に仮寓していたとき、歳のころが三十前後で元気はつらつな知友が少なからずいた。今日から振り返ってみると、高青邱の詩に「十載悲歓故旧分、或帰黄土或青雲」とあるように、この栄枯盛衰の変転はきわまりなく実に感慨無量とならざるをえない。
 私らが発起人となって創立した大阪紳士社交団体の二水会というのが、昭和七(
1932)年に創立四十年を記念して会をやるというので私も参列するよう頼まれたが、当時の会員で東京に残っているのは私と岩原謙三君のふたりだけなので、私が東京を代表して出席したところ、同会員は四十年間に五十六人亡くなったのだそうだ。そういうなかでこの祭典が行われたことに私は驚き、霊前に腰折(注・自作の短歌を謙遜するときに使う)を一首捧げるとともに、昔の思い出のために次の七言絶句を口吟した。

なき友のみたま祭りて月花を 共にながめし春をしぞおもふ
 
  鴻爪留痕四十春 重遊今日感前塵
  鬢華怕照澱江水 曾是尋花訪柳人


 それらの知友のなかで非常に毛色が変わっていたのが、私の後任として三井銀行の大阪支店長になった岩下清周氏である。
 
 氏は信州人で、鼻っ柱が強く、とかく人を怒らせるような言動が少なくなかった。高等商業学校出身で、まず三井物産会社にはいってパリ支店に勤務、帰国後にも非常に突飛なハイカラぶりを見せて物産会社の重役が持てあましていたのを中上川彦次郎氏が引き受けて、この暴れ馬を御してみせようというつもりらしく、私の後任として三井銀行大阪支店長に採用したのである。
 氏は非常にシャープかと思うと、またオネストなところがあり、剛情かと思えば非常に親切なところがあるという矛盾した二面を持つ合金のような人柄だった。
 支店長になった披露に大阪の経営者たちを招待するときにも、それまでの慣例に従えば、堺卯楼などで饗応の宴をもつのが通例なのに、中之島ホテルに彼らを招待し、晩餐の席上で楽隊による演奏を行うなどのハイカラぶりを発揮し、最初から大阪人を驚かせた。
 暴れ馬には自分のほうから人を蹴る癖がある。ほどなくして三井銀行を飛び出し、藤田伝三郎男爵と握手して北浜銀行を設立した。そのころは一時的に大阪を制覇したように見え、また大阪、奈良間の電車鉄道敷設のような永久に残る事業も残したが、大胆で突飛な性格がとうとう失敗の原因となり最後まで事業の面倒を見られなかったのは気の毒であった。
 しかし彼はそれほど落胆するでもなく、引退後は富士の裾野で農園を経営し、死ぬまで鼻っ柱を曲げなかったというような一種の変人であった。
 武藤山治君。後年、鐘淵紡績会社社長として紡績王の栄冠を得るが、彼も当時交流のあった一人である。彼は当時、神戸の三井銀行から鐘淵紡績の神戸支配人になりたてのほやほやで、現在の令室である千勢子夫人と結婚されたのは明治二十七(1894)年ごろであったろう。夫人は、当時京都に閑居していた長州の詩人である福原周峰翁の孫娘で、私の前妻と友達だった。日清戦争のさなかに、日本軍がいまにも北京を占領しそうだという噂があったとき、千勢子令嬢はある会合の席で杉の箸をふたつに折って「これをペキン(北京)と折れば二本(日本)になりますよ」という洒落で喝采を博したことがあるという。いかにも朗らかな女性で、私たち夫婦が媒酌人になり大阪の堺卯楼で結婚披露宴を催したときには朝吹英二翁も東京から参会されたものだが、その武藤君が今日のような大物になられるまでのことを思い出すといろいろなことがあり非常に愉快でめでたいことである。

 また、当時の旧友の中でもっとも出世のめざましいのは、今の阪急社長、東電(注・のちの東京電力の前身のひとつである東京電燈)副社長として東西の実業界を股にかけるもうひとりの猛将、小林一三君である。
 彼は当時、三井銀行大阪支店に勤務していたが、明治三十一(1898)年に岩下清周君の北浜銀行に招かれ、まさに同行に移ろうとした直前にたまたま上京し私を訪ねてこられたので、私は彼に、今後もしも実業界に雄飛しようとするなら、あまり急がずに翼が十分に整うまではしばらく安全な場所にいるほうがいいのではないか、という意見を述べたのだが、そのひとことで彼は北浜銀行行きを思いとどまったということだった。 

 私はそのことを忘れていたが、古い付き合いを大切にする小林君は昭和六(1931)年の暮れに、私がそのときに彼に送った意見書の手紙を表具して麹町永田町の仮住まいの弦月庵の床の間に掛け、きわめて味わい深い記念茶会を開かれた。そのとき、拙者がもし、当時ご忠告によって三井銀行にとどまることをせずに、北浜銀行に転職していたら、岩下氏の部下と運命をともにしただろうことは当然の成り行きで、私が今日あるかどうかわからない、それを思うと、人生の岐路に立ったとき右に行くか、左に行くかの吉凶は、あとになってわかるもので、拙者などは幸いに魔の手を免れることができたような心持ちで、実に感慨無量である、と述懐された。これは、後進者にとっても非常に有益な体験談ではないかと思う。
 当時の大阪で私と親しくしていた友人のなかで、日本銀行支店長の鶴原定吉、三菱銀行支店長の荘清次郎のふたりはすでに亡くなり、三井物産支店長の岩原謙三だけが健在である。なお、今の東拓(注・東洋拓殖株式会社)総裁の高山長幸君も三井銀行支店に在勤していたと思うが、ともかくも、暁天の星のようにまばらに残っている友人たちが現在大物として存在していることはとても愉快なことである。


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