【箒のあと(全) 目次ページへ】【現代文になおすときの方針

 六十九
明治中期の大阪(上巻233頁)

 私は三井銀行大阪支店長として、明治二十六(1893)年五月から足かけ三年間大阪にいたが、そのころの大阪の財界はいたって小さく、工業といえば大阪紡績その他二、三の紡績会社があるだけで、金融界はわずかに百万円くらいのレベルで、コール(注・金融用語)の利息が二、三厘も上下するというありさまだったし、旧家の鴻池、平瀬、加島などが経営する銀行の預金はそれぞれ数百万円に過ぎず、そうした家の資産も、これに応じて手薄なものだった。
 そ
のころ住友の広瀬宰平が牛耳っていた修齊会【しゅうせいかい】という会合があった。これは大阪の富豪のあいだの親睦を深めるための組織で、それらのひとびとで方針を決めるために話し合いの場を持っていたが、会員資格は十万円以上の資産を持つ者だけに与えられており、その会員数がわずか数十人に過ぎず、当時の十万円長者が大正中期の千万円長者の数よりもはるかに少なかったことを見ても、そのころの大阪の財界がいかに小規模であったかということがわかるだろう。

 また中上川彦次郎氏が鐘ヶ淵紡績会社を経営する上で、大阪紡績会社と方針が食い違い、松本重太郎氏らとの確執が生まれたとき、両者が面目をかけて一歩も譲らない状況になり、中上川氏は大阪勢を圧迫するために大阪、神戸の三井銀行支店からの貸出金を回収するという手段に出たので、松本氏らは慌てに慌て、東西両軍の仲裁役として藤田伝三郎氏をにわかに立て、中上川が紡績の喧嘩に銀行を引き入れたのは非常に卑劣な手段であるとほうぼうに触れ回ったが、貸金を引き上げるという戦法を前にしてはひとたまりもなく大阪方面の降伏で終わったということをもってみても、大阪の財界の資力がいかに貧弱であったかを反証することができる。
 当時の大阪一番の活動家だった松本重太郎は第百三十銀行を、田中市兵衛氏は第四十二銀行をよりどころにして、さかんに新事業を計画していたのであるが、日清戦争が迫りくる時期であり、金融上の逼迫から事業にもいろいろな障害が出てきていた。当時の日本銀行総裁の川田小一郎氏にお百度参りをして、大阪支店での貸出の手加減を緩和してもらえるように三拝九拝するありさまだったので、川田氏が大阪に来るときは連日連夜下にも置かない歓待を繰り返していたものだ。これなどは、大阪商人のはらわたがいかにも薄っぺらであるかということが見え透いて、むしろ気の毒に思われるほどだったこのよう貧弱な大阪が日清戦争を過ぎ日露戦争を経て大正時代の大発展を見ることになろうとは、だれひとり思っても見なかったのではなかろうか。


藤田伝三郎男爵(上巻235頁)

 明治中期における大阪商人の傑物といえば、藤田伝三郎男爵を第一に数えなければならない。男爵は五尺(注・約150センチ)に満たない小柄ながら、体全体がエネルギーに満ち溢れているという感じだった。体にくらべて大きな顔に赤茶けた頬ひげをたくわえ、人を冷笑しているかのような涼し気な目には一種の愛嬌をたたえ、如才ない人の対応で一目で人を魅了するようなようすをしていた。
 道具数寄で、金融逼迫のときにあっても名器を見れば見逃さないのが常だった。小坂銅山の経営のために井上馨侯爵を介して毛利家の金を借り受けていたので、侯爵に対しては表面的には道具買収を遠慮していたが、井上には内緒だと言って道具道楽をやめなかったので、いろいろやっているうちに大コレクターとなっていった。
 私の大阪時代には、男爵は高麗橋の天五(注天王寺屋五兵衛)の旧宅に住んでいたが、やがては網島に本宅を構え、伊藤、山県、井上の公爵侯爵らと同県人の縁故のためか、大阪人も彼には特別の地位を与えていた。
 はやくに小坂その他の鉱山を開発し、また、備前の児島湾の開墾事業にも従事し、後年には台湾での木材伐採や樟脳の製造にも関係して、長兄の鹿太郎、次兄の久原庄三郎と三人兄弟共同で藤田組を経営していた。日露戦争後には小坂銅山の繁盛のおかげで家運も大きくふるい、三家が分立して財産を分け合うことになった。
 そのとき男爵の事業がすべて大阪以外のところにあったので、私はあるとき男爵に向かって、あなたはもう大阪に住む必要がないと思うけれども、なぜ東京に移らないのですかときくと、いやもっともなお尋ねである、自分は大阪にいる必要はない、しかし大阪というところは商工一方の土地柄で、それよりほかに気が散らないということが自分が大阪を去らない理由である、またもうひとつの理由は、自分がもし東京に住んでいたら、政府にいる友人たちからいろいろな世話事を頼まれて、それに奔走して疲れてしまいそうだからだ、と高くとまって他人を見下ろしているようなところに一種の気骨が感じられた。
 彼は晩年、網島に長男、次男、三男のための三邸宅を建て、ほとんど太閤秀吉の桃山御殿に匹敵するような勢いを示していたが、大正末年に起きた財界の変動によって、各事業にガタがきて、後継者もまた静養中だということだ。しかし、維新後の大阪に現われた財界の傑物として記憶され、また男爵の道具のコレクションに関しては、まださまざまな珍談や逸話があるので、これについては別項で記述することにしよう。(注・156「藤田男爵と大亀香合」など)

【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ