六十八 大阪の商傑(上巻230頁)
維新の前まで諸国大名の蔵屋敷を相手に封建的な商取引を長く続けていた大阪町人の大店が、維新の変動で将棋倒しに崩壊すると、一般の大阪人の元気も衰えてしまった。
明治の初めに大阪で起業、興産ののろしをあげたのは、五代才助、中野梧一、藤田伝三郎、磯野小右衛門などの薩長人だった。また短い間ではあったが、井上世外侯爵が明治六(1873)年に下野したあとに藤田伝三郎、益田孝、木村正幹、馬越恭平らを取り込んでできた先収社という商会が大阪にあったこともこの情勢を物語るものである。
それから十数年後にあたる明治中期の、私の三年間の大阪滞在中に接触した商工業界の巨頭には、以前からずっと続いて活動していた先輩あり、あるいは近年に台頭してきた新顔もあったが、とにかく近世大阪の財政史に特筆されるべき人物たちなので、ここで、もっとも傑出している数名についての短評を試みたい。
明治中期における浪華財界の花形は、なんといっても第百三十銀行頭取の松本重太郎である。丹波間人町の出身で、頑丈な作りの身体はさながら力士のよう。顔つきもまことに大づくりで、眉毛が太く目も大きいといった感じで、それが大声で話をする、そのさばさばとした中に機略を感じさせるものがあった。第百三十銀行をバックに、大阪紡績をはじめとする新規の工業のほとんどに手を出し、大阪は一時、松本氏の天下のように思われた。しかしあまりに手を広げ過ぎたため、日露戦争の反動でまず銀行が破たんし、最後はあまり振るわなかった。養子の松蔵氏が後継者になり、それほどまでには零落の憂き目を見なかったことは不幸中の幸いだったと思う。
次に、この松本氏のワキ役というべき存在は田中市兵衛氏であった。白髪巨眼に一文字の大口という、人形浄瑠璃に出てくる鬼一法眼そっくりの容貌だった。大阪旧大家の旦那であったため、どことなく鷹揚なところがあり、義太夫は堂にいり、玄人はだしであったそうだ。有望な市太郎という子息が早死にしてしまい、遺った事業を継続する人がいないようだが、干鰯問屋が本業で大阪米穀取引所の頭取をつとめ、大阪築港地付近に所有する土地が十万坪あり、のちに値上がりしたので遺族は裕福であるという。娘は中橋徳五郎夫人になっており、父の血をひいたためか長唄やその他の音曲に堪能だそうだ。
もうひとり、大阪の大家を背景にして当時の重鎮のひとりだったのが、住友の広瀬宰平氏である。そのころ六十過ぎくらいだったが、維新のときに住友家が別子銅山を失わずにすんだのはこの人の尽力であったというから、住友家の今日があるのは彼に負うところが大きいのだろう。この人もまた大柄で、老体の紳士風に見える人だった。
鴻池家の顧問だった土居通夫氏は伊予伊達家の藩士で、鴻池家と伊達家の関係から、同家の顧問になり、外交上の代表となっている人だった。この人もまた大きな身体で、素人としてはかなりうまく義太夫を語った。しかし田中市兵衛氏のような老巧者ではなかったので、聞き苦しいことがままあったらしく友人たちはできる限りこれを避けようとしたそうだ。しかしながら本人だけは大天狗で、「義経千本桜の熊谷を語らせたら、先代の津太夫よりも俺のほうがうまい、なぜなら、津太夫は努力して熊谷になろうとするが、俺は自分がすでに熊谷だからだ」と主張したのを摂津大掾が持ち上げて、「素人義太夫には玄人の及ばない特色があって、熊谷のようなものはまったく仰せの通りでございます」と言ったものだから、土居老人は鼻高々で、毎度のようにこれを自慢していた。
大阪の旧大家である平瀬亀之助氏は当時五十歳あまりの旦那衆だった。この人は能楽、茶事、書画、骨董、音曲などの幅広い趣味を持ち、妙な習慣で昼間は寝通し、午後四時ごろに起き出して南地の富田屋はじめ一流のお茶屋に赴き、自分は一滴の酒も飲まず、取り巻き連中に芸尽くしをさせて長夜の宴を張るのを常とした。茶器の鑑定にかけては一見識を持ち、維新後に二束三文になっていた名器を多数買い込んでおいたために、明治三十五、六(1902~3)年ごろに同家の番頭の失策で家政が困難におちいったとき、所蔵の道具を売却することでみごとその欠損を埋め、ひごろは道具旦那と軽蔑していた番頭どもの失敗を、その道具旦那が尻ぬぐいすることになったというのは、まったく驚くべき話だったといえよう。
鴻池善右衛門男爵はそのころ三十前後で、ときどき銀行業者の宴会などに出席されたが、その後はほとんど社交を絶ち、業務は番頭まかせであった。しかしきわめて器用な人で、自分で押絵を作ったり、古扇面の収集でもその数は二千本に達したという。
私は大正十(1921)年五月に「大正名器鑑」編纂のために、同家の茶器の一覧させていただくお願いをし、鴻池新田の別荘で久しぶりに男爵と会見したが、新聞などで世間の動向をよくご存じで、道具入札の話になるとその記憶が確かなことには実に驚かされたものだった。
以上の何人かは、明治中期における大阪大家のなかの主だった人物である。
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