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 六十七
関西探題(上巻226頁)

 私は明治二十六(1893)年に、三井銀行支店長を命ぜられて大阪に赴任することになった。これはただ大阪の一支店長ということではなく、じっさいには名古屋以西の京都、大阪、神戸、広島、下関、福岡、長崎の諸支店の総監督であって、いってみれば三井の関西探題(注・探題とは鎌倉、室町幕府時代の地方長官)というべき任務を帯びた仕事だった。
 三井銀行には、明治二十四(1891)年八月に中上川彦次郎氏が入行した。彼は二十五年一月(注・じっさいには2月か?)からは三井銀行副長になり、三井高保男爵を補佐して着々とすぐれた手腕を発揮していた。私も本店での滞貨整理の事務がようやくほぼ片付いてきたので、中上川氏が、東京のほうは自分が引き受けるので君は大阪三井銀行支店長になって関西方面の采配を振るってほしいということであった。そこで五月の末だったと思うが、妻を連れて大阪高麗橋の三井銀行社宅に引っ越した。
 当時の三井銀行は、今の三越大阪支店がある場所にあった。木造二階建てで、正面の間口が三十間(注・約54メートル)、奥行も同じくらいの非常に大きな建物だった。
 当時の日本銀行支店長は鶴原定吉、三井物産会社支店長は岩原謙三、三菱銀行支店長は荘清次郎氏で、大阪の実業家たちとは、明治二十二年の暮れから翌年はじめにかけて吉川泰次郎氏と同地を訪問したときの顔なじみだったから、あのときは半人前の貧乏書生だったのが、たちまち三井銀行の支店長に早変わりしたのを見てみな非常に驚き、また同時に歓迎してくれたので、職務のうえで非常にありがたかったものだ。
 しかし日清の関係がそのころまでには非常に険悪になっており、戦争が時間の問題になったので金融の状況は極度に緊張していた。そろそろ始まったばかりの諸工業も青菜に塩の状態で、わたしの「関西探題」の仕事にも単純にはいかない重要性が加わったのである。私は京都をふりだしにして長崎のはてまでを巡回し、非常時における応急策を講じた。
 滑稽なことには、下関から尾道まで乗船した汽船のなかで、まんまと携行品を掏られてしまい、尾道で上陸したあとは自分自身が荷為替(注・荷物を担保にすること)になって、ほうほうの体で大阪に帰りついたのであった。当時は探題殿の威厳にかかわることなので知らん顔の半兵衛で澄ましていたが、おかしくも忌まわしい大失敗というものだった。

 

生仏の雨曝(上巻228頁)

 私が三井入りした明治二十四(1891)年のころには、京都の東本願寺に、ある政府の高官の口入れで三井銀行が貸した百万円の借金があった。当時の百万円といえば今日の一千万円よりもはるかに高額で、私が三井銀行に滞貨整理部を設けて貸金回収を図ったときにも、この半額でも回収できればまあ上出来だろうと思っていたものである。
 さて私は明治二十六(1893)年五月に大阪支店長になり、その百万円は本店の貸金ではあったが、関西探題であることの手前、私がその回収談判を引き受けなくてはならないことになった。そこで同年の十月ごろであったか、私は田宮貸付課長を連れて京都の東本願寺に乗り込んだ。
 当時の本願寺の執事長は渥美契縁、出納長は小早川銕僊だった。渥美のほうは小柄でやせぎす、機敏な顔つきをしている一方、小早川のほうは六尺(注・約180センチ)くらいもある大坊主で、いかにも動じない人を食ったような感じだった。
 百万円の金主の代理でやってきた私の身体からは、まばゆいばかりの光明が発していたのであろう、彼らは平身低頭で私を出迎えいちばん正式な大広間に案内し下へも置かぬ接待ぶりだった。
 私の談判の内容は、すでに中上川と打ち合わせ済みだった。それは、返金がいつになるかわからない以上は、枳殻御殿を抵当として公正証書に記入させよ、というのだった。
 これには渥美も小早川も驚いた。それは無理もない、枳殻御殿というのは、むかし源融の大臣(おとど)が、塩釜の浦の風景を模して造営した六条河原院の遺跡であり、その後、石川丈山が作庭を指揮したという伝説もある、東本願寺門主の隠居所である。これを手放すことになったらたいへんだ。今後返金が期限に間に合わず、枳殻御殿が抵当流れになったならば、それは生き仏が雨ざらしになるのと同様だ。それは宗門の一大事だ、ということで、彼らははじめて真剣に目を覚ますことになったであろう。
 「生き仏の雨ざらし」という標語が、非常に檀家衆を刺激することになった。そのあとただちに加賀、越前、越中、越後、能登方面や尾張地方に派遣された役僧たちの活躍で予想外の浄財が集まり、まだ半年にならないあいだにきれいさっぱり百万円の借金の返済があったので、今度驚いたのは私たちのほうだった。浄土真宗の信仰の力はまことに偉大なのであった。ある人が、本願寺にお金を納めようとしていた老婆に、お前がせっかく貯めたへそくりを差し上げても、なまぐさ坊主の酒宴の代金に消えてしまって、なんの甲斐もないだろうと忠告したところ、それでは御門主様がお気の毒なので、もっと納めなくてはなりません、と答えたという。
 こうして当時は私たちも驚いたものだが、この信仰がはたしていつまで続くだろうかということを今後も興味深く眺めていきたいものである。


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