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 六十六
吉原謳歌の名残(上巻222頁)

 徳川時代に紀文(注・紀伊国屋文左衛門)や奈良茂(注・奈良屋茂左衛門)が全盛をきわめ、高尾だの玉菊だのという名妓が美談を残して軟派芸術の繁栄の中心となった吉原も、その全盛は維新の変動とともに下火になり、一年一年とその影が薄くなっていった。それでも明治二十年代まではさすがにその名残をとどめ、芸者や幇間の達人が残っていた。
 なかでも、おりゑ、お直、お〆、おちゃらなどは一騎当千の老妓とみなされ、それに山口巴の女将おしほを加えて、東京の高官紳商のお座敷にはおうおうにしてそのような人たちがはべっているのが見られていた。
 吉原というのは、昔、浅草の札差の旦那衆が、流連(注・いつづけ=連夜遊行にふけること)して伊達を競った不夜城であるから、一時期彼らのあいだで全盛を誇った河東節のなごりをなおとどめていた。老妓のなかにはまだこれを上手にやれるものも多く、おりゑ、お直はその道の達人であったし、おちゃらは新内節、お〆は吉原名物の木遣で有名だった。
 とくにお〆は、相撲取りのような大きな体をしていて、それが閻魔大王が顔をほころばせたようにして大声で木遣りを歌いだすと、いかにもはつらつとして吉原らしい元気さに満ちていたものだった。
 吉原の芸者や幇間というものは、もともと太夫のワキ、ツレとして座敷を取り持つのが仕事である。また夜桜祭りや灯篭祭りのときに、あの二輪加(注・にわか=即興芝居)を演じるためにいつもその技術を練習しているので、芸の面で当時東京では匹敵するものがなく、どのような座敷に臨んでも、彼女たちは姐さん格で仰がれ一目置かれていた。
 しかし明治二十年代になりその老巧者が凋落していくとそのあとを継ぐものもなく、一方で新橋や柳橋で芸道が奨励された結果、優者生存のならいで、明治中期を最後にして北の廓が挽回することはなかった。
 しかしその最後にあたり、たとえ線香花火のようであったとはいえ目をひく火花を加えたのが、ときの日本銀行総裁で旧式の大尽風を吹かせて豪勢な磊落ぶりを見せた川田小一郎男爵であった。
 川田男爵の全盛時代には、昔から芸者に美人なしと相場が決まっていた吉原に、いとめずらしいことに吉次という美しい芸者がおり、川田大尽の勢力をしても、かんたんにはなびかすことができないのであった。
 それを、例の老妓連中が画策して、北廓(注・吉原のこと)繁盛のためのいけにえとして、吉次を明治の仏御前(注・平家物語の白拍子)として差し出したので、大尽は布袋腹をかかえて有頂天になり、それから一層吉原のパトロンになっていったのである。
 川田大尽はもともと舞踏や音曲を好み、見巧者、聴巧者として芸術の奨励を標榜し、吉次をはじめとする東京芸者を京都に連れてゆき、関西風の舞を習わせたりもした。
 また将来に見込みのある女流芸人を庇護し、おりにふれてその芸道の進み具合を確かめるのを楽しみとするような人でもあった。
 後に清元延寿大夫の妻となった清元お若なども少女時代にその天性の歌声を愛され、養母のお葉とともに川田の愛顧にあずかったことはよく知られている。
 川田氏にこのような因縁や志向があったために、吉原謳歌の時代の最後にひと閃きの光が添えられたわけであるが、それがとうとう繁栄のなごりとなってしまったのは、明治中期以降に世相が一変してしまったその象徴だったと見てよいかもしれない。


応挙屏風の割愛(上巻225頁)

 全盛時代の川田総裁の性格がよくあらわれたエピソードがある。そのころ日本銀行の監事をつとめていた森村市左衛門のち男爵氏が円山応挙の「早苗時鳥屏風」一双を持っていたが、川田氏は茶碗や書画のコレクターというほどではなかったにしろ、書院の飾りには相当の書画骨董を陳列されていたから、すこしはそちら方面の趣味を持っておられたにちがいない。あるとき森村氏所蔵の応挙を見せてもらい、うらやましくてたまらなくなった。しかしさすがに譲ってくれとは言い出しかねたらしく、いろいろ考えた末に、得意の知恵を絞ってハタと一案を思いついた。
 それは、江戸川町の自邸に東京の名士を招待する席上、「目に青葉、山ほととぎす」の季節でもあったので、家の裏庭にある水田の早苗が青々と風にそよぐそよぐ五月の夕べの席に一興を添えたいので、どうかあの屏風を貸していただけないだろうかというものだった。森村氏としても、これを断る理由もなく、頼まれるままにさっそく屏風を貸し出した。
 森村氏も招待客のひとりだったので当夜川田邸に行くと、例の屏風が客間の一方に立てられ、郷里の土佐の国からは、ほととぎすを二、三羽取り寄せて、招待客が客間に集まったころに鳥を鳴かせるという趣向であった。

 ところがほととぎすがその注文のとおりに鳴きださないので、主人はじりじりと焦りはじめ、今にも癇癪玉が破裂しそうになったその時、屏風のかげから裂帛(注・れっぱく。声などが鋭いの意)の一声が客の耳をつんざいた。
 これには列席のひとびともすっかり感心して、主人の考えた珍趣向を口々にほめたが、森村氏もまた、主人がこれほどまでに凝りに凝ってこだわったことに感じ入り、即座にその屏風を寄贈し、川田氏の執着心を満足させてやったのだそうだ。 
 明治二十年代には、まだこのような好事家(注・趣味人)がいて、はなしのタネを蒔いている時代だった。今日の目から見るとなんとも昔懐かしい気持ちになるのである。


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