六十五
両川の智恵競べ(上巻219頁)
明治二十五(1992)年ごろは、日本銀行の川田と三井銀行の中上川が対峙して、貫録という点ではすこしばかり不釣り合いではあったものの、なんとなく敵国同士の観があった。その一方である三井銀行の中上川は、官金中毒の治療のためにまずは滞貨金の回収などの整理に没頭していた。
そのなかに、三井銀行の横浜支店長から正金銀行貸付係長の角堅吉に預け入れした三十六万円に関する係争問題があった。正金銀行にはこの預かりの事実がないということなので調査してみると、角が、私用で競馬などにつぎこんでしまったものらしい。角は金を預かったとき、細長い手形のような紙に預金高を書き入れそのつど三井銀行の支店に渡していたらしく、法律の上でなかなか複雑な問題になってしまった。
しかし中上川はその紙手形の中に正金銀行の便箋があるのを発見してこれを重要視し、岡村輝彦を弁護士として訴訟を開始しようとした。
そのとき川田総裁が、正金と三井の両銀行が法廷で争うのは非常によくないので、自分に仲裁を任せてもらえればなんらかの力になれると思うと言い出した。
正金も三井も、これ幸いと異存はなかったが、川田がどのようにこれに裁きをつけるのか、その手並みにみなが注目することになった。
川田が双方の代表者に提示した仲裁案は、正金銀行が海外為替用に日本銀行から年に二朱(注・未調査)で融通している資金のなかから百万円を割き、二年間、三井銀行での使用を許可せよ、というものだった。
正金銀行でも損にならず、三井も横浜支店長に多少の手落ちがあったわけだから、この仲裁案を双方が受け入れ円満に解決した。
それにしても、中上川が手形の紙のなかから正金銀行の便箋を見つけた目のつけどころと、川田が双方が受け入れる可能性のある裁断を下したところには、さすがに当時の財界の両巨頭の知恵比べの観があった。いまではこのときのことを知る人も少ないので、両雄の面影をとどめるためにここに書き留めておく次第である。
渋沢の八方美人(上巻220頁)
渋沢栄一は、明治、大正にまたがり、わが国の財界にもっとも偉大な足跡を残した大経世家であるばかりでなく、学識や経験にも富み、智徳円満な君子である。福禄寿(注・子孫、財産、長寿)のいずれにも恵まれ、維新後のわが国の商工業の草創期にその発展を助けた功績は、どんな讃辞をもってしても言い尽くせないほどである。
ところで、明治中期以降の渋沢子爵だけを知る人は、子爵を円満で老熟した、いわゆる八方美人の見本のように思うかもしれない。しかしそれ以前の渋沢子爵は、必ずしも浜辺の貝殻のようにすべすべして尖ったところがないというわけではなかったのである。
子爵が明治の初年に大蔵省に出仕したときはかなり気骨のある議論家だった。大久保利通卿らとも相当の議論を戦わせ、結局井上侯爵とともに連帯辞職するに至ったのである。
民間にくだってからは第一銀行の頭取になり、その翼を財界に伸ばすことになった。三菱の岩崎弥太郎とその一派に対峙し、さながら敵対国同士のようになっていた。
共同運輸会社と三菱汽船会社の競争では、渋沢子爵が正面に出ていたわけではないが、三菱一派と、渋沢、益田らとが対決の情勢を見せていたことは誰の目にも明らかだった。
そういう渋沢子爵の世渡りぶりが、明治中期以降に目だって変わってきたように見えたことについては、なにか理由があったにちがいない。
私の見るところでは、前述した明治二十四(1891)年四月(注・じっさいは七月か?)に起きた三井銀行、第一銀行の恐慌に際し、渋沢子爵が第一銀行に対する責任上やむをえず川田総裁に頭を下げて援助を請わなくてはならなかったことがあったと思う。
この事件は渋沢子爵にとり、一生でも一、二を争う不愉快な出来事であったと思うが、同時におおいに悟るところがあった事件でもあったのではなかろうか。
実業家が、銀行や会社などの事業に当たり責任のある地位にある場合には、なによりもまずその仕事に対する責任を負わなくてはならない。自分の権力を増大させようとか、名声に注目してもらおうなどという自己本位の考えは一切投げ捨てなけれはならないものなのだ、というような、子爵の覚悟ができたのではないだろうか。
渋沢子爵が関係した事業は非常に広範囲にわたっているので、子爵の利己的な意地だとか好き嫌いが原因で財界有力者と衝突を起こしたり事業になんらかの損害を受けるようなことは、事業の従事する人間として申し訳が立たないという考えが、このときに子爵の胸中に湧き起こってきたのではないかと思うのである。
もちろんそのとき渋沢子爵は五十歳を過ぎ、いずれにせよ老熟円満の境地に達する年齢ではあったけれども、このことが一層、子爵の心境に変化を及ぼしたのではないかと、私は当時見ていて思ったものだった。むろんこれは、凡人の浅はかな観察に過ぎぬかもしれない。記して識者の教えを待ちたい。
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