六十四
道具入札の嚆矢(上巻215頁)
東京において道具入札売買が始まったのは明治二十五(1892)年のことで、それには私も実は密接なかかわりを持っているのである。それはほかでもない、前記のように私が明治二十四(1891)年から三井銀行内に整理係を設けて、貸金を整理したり担保の品を処分することになったりしたことと関係する。こうしたなかに、堀田瑞松という塗物師が、その地所と家屋、道具類を抵当として六万円を借りているケースがあった。
その抵当物のなかには、今日三井家の所有になっている三万坪の大崎別邸なども含まれていたが、彼の自作による黒塗の書棚が十数個、また中国の黒檀紫檀枠の織物張交ぜ屏風などの数々の道具類も含まれ、それらを処分することになったのである。
また第三十三銀行頭取の河村伝衛氏の抵当だった道具の処分にあたり、その一部は、当時、山城河岸にあった堀田瑞松の住宅に陳列して三井内部の人間に売却し、その他多数の茶器は星ヶ岡茶寮において売却することになった。
そのころ三井に出入りしていた加賀金沢出身の徳田太助という人がいて、兜町の角で鬼の念仏を看板にして薬種の店をやっていたが、この人が道具の売買にも心得があるということでその売却を任せたところ、彼は東京での従来の道具売却の方法だった競売法を使わず、加賀の入札売却法を採用したので、それからこれが東京での道具売却は入札法になったのである。そのときの荷主(注・売却主)には、三井を代表して私がなり、徳田を札元にして入札に当たった。
このときの道具相場は驚きにたえないほど安かった。田村文琳という有名な名物唐物茶入に対して、岩崎弥之助男爵の注文を受けた小川元蔵が三百円、馬越恭平氏から依頼された山澄力蔵が三百円五銭の入札で、わずか五銭の差で馬越氏に落札した。これは維新後のわが国の道具移動史において、特筆すべき一事件だと言えよう。
このとき出た道具の数が何百点だったのか記憶しないが、売上高が約四万円前後だったから私はとてももったいないと思い、のちに大阪三井銀行の支店長になったとき、同行の抵当になっていた長田作兵衛家の道具を処分するときには、この時の経験から思いついてそのとき売却することはせず、全部を三井各家に分配することにしたのである。
こうした経験から私の道具鑑賞眼はおおいに培われ、茶事に対する興味も増して、とうとう病みつきになることになったのである。
東京地面の価格(上巻217頁)
維新後明治中期にいたるまで、東京市内の地価は驚くほど安かった。維新直後には、高輪の毛利邸が二万坪以上でたったの八百円、明治四年に慶應義塾が買い取った芝三田台の島原藩邸が一万三千坪で五百円あまりであった。
小石川の水戸藩邸は、維持困難というのでみずからすすんで政府に献納したなどというあきれるような話や、明治十年前後に馬越恭平氏が本郷弥生町の宅地八万坪を坪一円で政府から払い下げられたが、ほどなくして、銘を龍田という柿のヘタ茶碗の購入資金に困り、土地をほとんど原価でほかの人に譲り、のちにその地所が坪五十円に値上がりしたときに、この茶碗は四百万円の身代わりだと言って披露したなどという奇談もある。
番町あたりの宅地はだいたい千坪で二百五十円くらいだったので、政府の高官たちは月給の余りで買い入れ、後年の財産になった場合が少なくない。
私が三井銀行内に貸金整理係を設け、抵当流れの地所を処分しつつあった明治二十五、六(1892~3)年ごろは、地価も非常に高騰して昔のような安さではなかったとはいえ、まだまだ高の知れたものだった。現在都新聞などがある五千坪のひとまとまりの土地は、小野金六氏が経営していた東京割引銀行が持て余していたのを、私が三井銀行に持ち込み一坪八円で買い取らせたものだ。
またそのころ政府が、丸の内の土地十万坪を、一坪十六円で払い下げることになった。私は三井がこれを引き受けるかどうか三井銀行の幹部会にはかったことがあったが、同行は当時、官金返却に専念している際中で中上川氏はまったく賛成しなかった。
これを買収したのは三菱だったが、ここで思い出されることがある。明治二十二(1889)年に私がロンドンに滞在中のこと、長崎造船所建設の下調べのためにイギリスに来ていた荘田平五郎氏をサヴォイ・ホテルに訪問したことがある。そのときに、イギリスの貴族が年利2パーセントの利回りにもならないロンドンの土地をひとりで多数所有しているのは経済上の利害から見てどのように説明されるのだろうか、という話をしたとき、荘田氏は、富豪の財産はなるべく種類を多くして、ひとつのものに集中させないほうが安全だ、土地は利回りは小さいが財産品目として非常に大切なものである、と言っておられた。三菱が丸の内の土地を得たことは、堅実さで知られる弥之助男爵の考えではあったろうが、当時洋行帰りの荘田氏の提案の力も大きかったのではないかと思う。
コメント