六十三
三井整理の進捗(上巻212頁)
三井革新の大会議のあと、私はその会議で決まった整理係をさっそく銀行内に設置しようとしたが、前述のとおり西邑、今井などの現重役陣はしぶしぶ同意していたので、とにかくぐずぐずして実行するまでには約一か月かかり、七月四日になってついに滞貨整理係が成立した。三井三郎助(注・高喜は当時総長なのでおそらく高景)が係長、私が次長になった。
この整理係の仕事は、東京三井銀行本店の貸付係の帳簿のなかから不健全とみなされるものを選び、これを整理係の帳簿に移し、回収がもっとも困難だと思われる貸金から、債務者に事情を告げて催促しあるいは協議する。抵当を差し出す場合は引き取り、ほかに借り換えをする場合はそのようにしてもらい、かたっぱしから順番に回収作業を行うというものであった。
この実務にあたるために専属の貸金催促係を二名置いた。ひとりは、のちに原田電気商会主になる原田金次郎氏の実父だった。
このときの不良貸金の相手に堀田瑞松という人がいた。軍艦の底に漆を塗り、貝殻の付着を防ぐという発明を実施するための資金を貸し付けたもので、現在の大崎の三井控え邸の三万坪はこのときの抵当流れである。
また官吏の邸宅を抵当として貸し出してあったものも多数あった。例の官金出納に影響を及ぼさないように西邑氏らの意向を考慮したので、回収に時間のかかるものをあったが、抵当の時価が貸金と大差ない場合には利息を払わなくてもよくしたりしたので、案外多額の不良貸金を整理することができた。これが、私が銀行実務にあたって最初にやった腕試しというものであった。
三井資力の消長(上巻213頁)
明治二十四(1891)年四月、三井銀行が恐慌に遭って当惑していたとき、いったい三井全体の資産がどれほどあるのか、貸借対照はどのようになっているのかが明確にはわからなかったので、ある日、井上侯爵が私を自邸に呼び、西邑にきいても三井の財産がどのような状態なのかは、ただ大丈夫だと言うだけで要領を得ないので、まずこれを調べ、その結果が他人に見せられるような状態なら、大蔵省や日本銀行やその他財政関係の要職にある人達に打ち明けておくほうが三井のために安全だと思うので、君が主任になってさっそく調査してほしいと言われた。
そこで私はさっそく調査にとりかかった。これにはおよそ一か月半もかかったが、なかなか複雑な作業だった。たとえばある貸金があったとして、それを全部回収できる場合、七割あるいは五割回収できる場合、またはまったくの貸し倒れになる場合などと見込みを立て、回収見積高を資産に編入するのであるが、東本願寺に貸した百万円、第三十三銀行に貸した七十五万円、角堅吉氏から未返済の三十六万円、神戸支店で嘉納某氏から引き取った小名浜の土地、または三井元方に支出した三池炭鉱入札の即金払いの百万円などを、どのように見積もったらいいのかほとんど見込みがたたない。まず元金だけ取り戻せれば上出来だろうくらいに考えて、その財産と政府預金、民間預金、その他の借方勘定とを差引計算した結果が、クレジットのほうが少しデットを上回ったくらいで、だいたい貸借が、どっちもどっちくらいの勘定になった。
今日から見るとじつに馬鹿馬鹿しいお笑い草のような計算だが、その調査ができ上ったときには三井の主人がこれを見ても驚かず、井上侯爵なども、これならそれほどまでに悲観することもなかろうとむしろ満足したような次第で、隔世の感があると言わざるをえない。
さてこの調査表を十数部作り、井上、渋沢、その他に提出しておき、ほどなく山陽鉄道の引継ぎを終えて上京した中上川彦次郎氏を新橋の停車場に出迎えたのであるが、三井銀行のほうでは中上川氏に知り合いはおらず、また氏の入行を歓迎していたわけでもないので、私以外に出迎える人もなかった。とりあえず調査のできあがった例の調査表を氏に示すと、これなら思ったよりも結構ですね、と言われたような次第だった。
中上川氏がいよいよ三井銀行にはいり、各方面にあいさつ回りをしたときには、井上侯爵とも相談のうえ日本銀行の川田小一郎氏にもこの表を見せ、このような状態なので以後よろしくご援助を願いたいと述べたそうだが、中上川が日本銀行から帰ってきたとき私に向かって、今後三井の改革を行うにあたり、再び川田などの前に頭を下げたくないから、たとえ利益は少なくても、まずは堅実を心がけて進まなくてはならない、と述べられた。例の傲慢な川田の態度に憤慨したのであろうか、あの感慨深い顔つきを今でも印象深く覚えている。
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