六十
明良遭遇(上巻200頁)(注・明良=名君と良臣のこと。書経から)
明治二十四(1891)年は三井中興の発端で、同年十一月には三井銀行副長の西邑乕四郎氏が例の取りつけ騒ぎに恐縮して内閣首脳陣(注・三井大元方のことをさす)の更迭を承認した。
西邑氏はもともと三井八郎次郎(注・三井南家)男爵家の家職(注・執事)の出身で、どこかの大藩の家老とでもいうような上品さと誠実さを兼ね備えた人だった。もし主人にあやまちがあれば身を挺してこれをいさめ、まかりまちがえば切腹さえもしかねない実直な人だった。私腹を肥やし権力を握ろうなどという非道な考えはなかったのである。
だから今回中上川氏が自分に替わることになっても特別不満を述べるということはなかったが、井上侯爵は若干の手加減を加え、三井銀行総長である高喜氏のかわりに高保男爵を推し、中上川氏を副長にするとともに西邑氏にも副長の名を残し、また今井友五郎、斎藤専蔵をいままでどおりに元締に残して第一次三井内閣を組織することになった。急激な改革を避け次の人事改革を待つなど、このくらいのところで止めたのである。
しかし結局のところ首脳となったのは、主人側では髙保男爵、重役側では中上川氏で、この両人による鋭意改革が断行されることになった。
当時を思い出してみると、それまでどおりであればもっとも聡明な高保男爵を総長のような重要な地位につけることは、三井のような長年にわたり年齢順に地位を定める家族制度を守ってきた家においてはとうてい不可能だっただろうと思うので、それをなしとげて高保男爵と中戸川氏のふたりを組み合わせたというのは、まったく井上侯爵の力であった。
このとき中上川氏は三十八歳の働き盛り。高保男爵は四十二歳で、すこし前(注・明治20年)に益田孝男爵とヨーロッパ諸国をめぐり大きな決意を抱いて帰国されたばかりのときだった。このふたりが舞台上に上ってきたというのは、渠成りて水至る(注・溝ができると自然に水が流れてくることから、ものごとには順序があるということ)の勢いで、まさに適材適所であった。三井家の下降していた運はこのとき底を打ち、これから先は大きく反転する時期であったわけだ。
中上川の手腕(上巻201頁)
中上川彦次郎氏は、明治二十四(1891)年八月に三井銀行にはいり、同年十二月に副長になるまで、飛び立つ前の鳥がまずは羽根をおさめるかのように、もっぱら三井の研究につとめた。(注・実際の役員改選がおこなわれたのは、明治25年2月?)
十二月に副長に任命されると、翌年の一月から部署を決めるなど各方面の改革に着手した。この改革について、ここでくわしく論じることはできないので、主だったものだけをいくつか挙げることにする。
一、学生を採用すること
一、行員の給料を増額すること
一、不良債権を整理すること
一、官金取り扱いを辞退すること
一、鐘淵紡績会社、王子製紙会社、製糸工場などを積極的に経営すること
一、三井営業店を統一すること
一、三井合同営業所を建設すること
一、北海道炭鉱その他、同地の事業経営のこと
などで、中上川氏が二十四年に三井にはいってから三十四(1901)年に死去するまでの在職中に実現した改革の案をあげてみた。このなかには初めからすぐに実行したものもあれば、徐々に着手して数年以上かかったものもある。
彼は三十八歳から四十八歳の壮年期のもっとも気力精力が充実している時期に、ときにははたから見ていてはらはらするくらいにかなり過激に前進し続けた。
たとえば人間の採用については、従来の人材のなかでまだ役立つ者のほかは慶應義塾出身者をどしどし採用した。朝吹英二、藤山雷太、和田豊次、武藤山治、林健、矢田績、鈴木梅四郎、波多野承五郎、小野友次郎、金井又二、藤原銀次郎、日比翁助らはいずれも当時採用された。
また採用するばかりでなく、藤山雷太氏を自分の夫人の妹と結婚させたり、のちに三井銀行取締役として重要な位置に立つ池田成彬氏に長女を嫁がせたりした。これは、部下に一心同体の人物を集めておくことが、ひいては自分が奉公する三井にとっての利益になるという考えによるもので、世間のうわさや評判を気にかけない中上川氏一流の見識だった。
行員の給料を増額したのは、当時の三井のような家では、使用人に生活できるかできないかの少額の月給を与えるかわりに裏でさまざまの抜け道があったことを改正したものである。思い切って給料を上げるかわりに風紀を非常に厳粛にとりしまるという、非常に効果的な方法だった。
また、三井が大株主でいつも資金を供給していた鐘淵紡績会社、王子製紙会社などを完全に三井銀行の管理下に移したことも彼のふるった辣腕のひとつである。
王子製紙会社を、渋沢の配下だった大川(注・渋沢の甥にあたる大川平三郎)から取り上げ三井の配下にある藤山の手中に移したときには、大川と藤山のあいだに大きな衝突が起こり劇的な一場のシーンとなった。
あまりにもきびきびと改革を進めることに対しては賞賛と悪口が相半ばした。後年、中上川攻撃が続出したときは、井上侯爵も反感に同調して攻撃の度合いが増したこともある。しかし、三井中興の基礎をわずかに数年間のうちに築き上げたその手腕はおおいに認めなくてはならないと思う。
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