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  五十九
実業生活の首途(上巻196頁)

 前述のように、私は明治二十四(1891)年一月から、役名はなかったが客分の資格で三井銀行にはいり、それまでの半人前の生活を終えて実業生活にはいった。そこで、家庭を構えるために妻帯の必要を感じ、四月二十四日に山口県人の長谷川方省次女の千代子と結婚した。これはまったく私事であるけれども、当時の私の生活状態がどのようなものであったかを次に少し記しておきたい。
 私は明治十四(1881)年に東京に出てきてから、このとき早十年になっていた。それまで実家から金の仕送りを受けたことがなく、友人から金を借りたこともなく、借金というものは私にとっては絶対に禁物だった。
 慶應義塾に在学のときは福澤先生から毎月七円五十銭を与えられ、約一年で卒業したあとは時事新報にはいり、最初の月給は十円、その後次第に昇進し、明治二十(1887)年に退社したときには、社員の中で最高給の百円くらいの月給をもらっていた。
 洋行時の前半は下村善右衛門氏から出資を受け、後半は旧藩主の徳川篤敬公爵からの臨時借用で間に合わせ、明治二十二(1889)年の帰国から三井にはいるまでの二年間は、前半は時事新報の社説執筆料で、後半は横浜貿易新聞の監修料で、生計には特に困るほどのこともなかった。
 三井銀行では百五十円を給与される内約であったので、築地三丁目に家賃二十五円の家を借り簡単な婚礼を済ませ、自宅で披露宴を行った。
 そのときに床の間にかけたのは、当時の都新聞社長で私の親友だった稲茂登長三郎氏から、偽筆と知りながら借りてきた松村景文筆の松に鶴の掛物で、その前には銀座の縁日で買ってきた万年青(注・おもと。葉を観賞する)の盆栽を一鉢飾って平気の平左衛門、そこに隣家の池田謙三夫妻や三井関係の実業家を招待したという、無頓着もいいところだった。
 後年、茶事を学んだり、美術品をひねくりまわすようになり、結婚当時のことを顧みて、その大胆さにわれながらあきれ果てたものだ。池田夫妻らとも、このことを話して毎度大笑いになるのであった。
 さて結婚したのは私が三十一歳、千代子が十九歳のときだった。千代子の父、長谷川方省は漢詩を作るのがうまく、同県人の杉孫七郎子爵、遠藤謹介、福原周峯などと親友のあいだがらだった。
小心翼々たる君子人(注・つつしみぶかい聖人君主)で、遠藤氏が造幣局長だったときに次長を勤め、小崎利準(注・原文では「尾崎」)氏が岐阜県知事だったときに書記官をつとめたという人で、明治二十二、三(188990)年ころには官を退き東京の飯田橋に住んでいた。これまた同県人で三井物産会社の重役だった木村正幹氏の仲介で婚約を結び、初代大審院長の玉乃世履の長女を妻としていた医師の片桐氏が媒酌人となってくれた。

 こうして千代子は十八年間私と生活をともにしたが、明治四十一(1908)年の冬に三十九歳で死去することになる。妻については、またのちに記すことにさせていただきたい。


最初の茶室入り(上巻198頁)

 私は明治二十五(1892)年十二月下旬のある日、益田克徳号を非黙、または無為庵氏に招かれて、生まれて初めての茶室入りをした。 
 東京では維新のあと一時期茶の湯が衰退し、どこにも茶煙があがるところはなく、名物といわれるような茶碗が二束三文で売買される状態だったが、西南戦争のあと社会の秩序もようやく落ち着き、明治十三(1880)年ごろからぽつぽつ茶人が頭をもたげるようになってきた。
 そのなかで益田克徳氏は、侘茶の数寄者で、その人間全体が非常に茶人向きにできていたので、兄の益田孝号、鈍翁男爵や弟の英作号、紅艶氏よりも数年はやく茶道にはいり、紳士の茶人の先輩として馬越恭平、加藤正義、近藤廉平らを感化するなど、大勢の友人を茶事に親しませたという功績を持っている。明治二十五(1892)ごろは、上根岸の、庭に老松のある邸宅の母屋につなげて建てられた、無為庵という茶室を持っていた。
 その田舎家風の休憩茶室で歳暮茶会が開かれた。牛小屋のように天井を見せた茅葺きの室内の壁床(注・床板、落し掛けのない床の間)に、張即之筆鬼の大文字と、福の一字を織り込んだ唐織裂とを継ぎ合わせた一軸を掛け、大炉には、煤竹(すすだけ)の自在鉤に大きな手取釜を釣ってある。五客には、それぞれ素焼きの焜炉(こんろ)を配り、青竹籠に、つごもり蕎麦と鴨の切り身を盛り合わせ、自分で調理していただくという趣向だった。
 この日の正客は加藤正義氏で、そのころ葭町あたりに太郎という名のひいきの芸者がいたのを克徳氏がいつのまにか察知して、さりげなくぎゃふんと言わせるつもりか、最近大阪で手に入れたノンコウ(注・楽家三代目、道入)作の茶碗で、銘を太郎というものを使ったので、正客は驚くは喜ぶはで、最後には大笑いとなった。
 克徳氏はつかみどころがないふわふわした客あしらいがうまく、いかにも無邪気で愛嬌に富む性格で、このようないたずらっぽさのある歳暮茶事に初めて出合った私は、すでに心の中にきざしていた茶の湯への好奇心の火に、一気に油を注がれたようなものだった。この夕べをきっかけにして、私は生涯茶煙に巻きこまれることになったのである。



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