五十八 三井中興の第一歩(上巻193頁)
三井銀行に取りつけ騒ぎが起きたあと、井上馨侯爵は、かねてより計画していた三井の改革案を実行するためにこの機会を利用し、麹町区土手三番町の三井八郎右衛門(注・高朗)男爵邸に三井同族、同重役その他の関係者をよんで、五月下旬か六月初旬ごろに大会議を開いた。(注・実際に京都支店で取りつけ騒ぎが起きたのは、明治24年7月なので、5、6月はまだ、新聞などで悪い風評が強まりつつある段階であった。本文では、そうした風評を含めて「取りつけ騒ぎ」と称していると思われる)
井上侯爵は、三井家主人の依頼で三井家革新の任を引き受けてはいたが、三井銀行には西邑乕四郎氏が総長代理として席を占めており、井上侯爵も彼らの営業方針がすでに時代遅れであることがわかってはいても、これを抜本的に改革する必要があるということを口にする機会に恵まれていなかった。またかりに口にしたとしても、彼らがそれぞれの立場から反対してくるだろうと考え安易にはここに手を出さず、まず家憲の制定を先決問題にして好機到来を待っていたのであろう。
今回の取りつけ騒ぎは現在の銀行幹部の大失態であり、西邑らは主人にたいして申し訳の立たないことをしたわけだから、ここで機敏な井上侯爵が好機を見逃すわけはなく、とうとう善後策の会議を開くことになったのである。
さて、侯爵はこの会議に臨むにあたり、三井の改革実行者として、当時山陽鉄道会社の社長であった中上川彦次郎氏を推薦するという腹案をもっていた。中上川氏は明治九(1876)年ごろ井上侯爵とイギリスのロンドンで知り合い、侯爵が明治十一(1878)年に外務卿になったとき中上川氏を権大書記官公信局長に抜擢した。これはもちろん中上川氏の手腕を信頼したからであったが、同時に彼の叔父である福澤諭吉が背後にいるということも忘れてはいなかったであろう。
その中上川氏は、当時大阪地方の山陽鉄道会社の大株主たちとのあいだに意見の不一致があり不愉快な立場におちいっていたので、井上侯爵は藤田伝三郎男爵と相談し、中上川氏を三井で採用することにしたのである。そして、そのことを三井の大会議で提案することにしたのであった。
会議には、三井同族の最年長者である高喜氏をはじめ、高朗、高辰、高生、八郎次郎(注・高弘)、高保、三郎助(注・高景)、八郎右衛門(注・当時の八郎右衛門は上記の9代高朗だが、ここでは10代高棟をさしていると思われる)の諸氏と、同家の元老および関係者である渋沢栄一、三野村利助、益田孝、今井友五郎、石川良平、中井三平らが出席し、私もむろん末席に連らなった。
井上侯爵は三井銀行重役にたいし、つとめておだやかな面持ちをくずさず、せんだっての取りつけ騒ぎのときにはさぞや心配されたと思うがさいわい大事にいたらずに済んでまことによかったと述べたあと、つぎのような提案を行った。
「自分が明治のはじめから折にふれて三井家からの相談に乗ってきたのは、個人的な交際理由があってそうしたわけではない。三井の興廃が、日本の財政に影響を及ぼす問題であるということを考えてのことであった。現在、時勢が大きく変化し、ほかの銀行でも高等教育を受けた人たちを採用するようになっているのだから、三井でも昔からのやり方を守るばかりではいけないはずだ。そこで、まず高橋を入行させたが、三井のような大きな家の改革をするには、一人や二人の力ではとても無理だと思っていたところ、さいわいに山陽鉄道社長の中上川彦次郎が入社を承諾してくれたので、採用して今後の改革に当たらせたいと思っている。みなさんはどう思われるか。」
これには当然ながら、西邑氏も異議を唱えることはできなかった。主人側もまた、非常によいではないかと賛成したので、中上川の入社が決定した。
このとき私は、三井銀行に入社以来五か月にわたって調査した結果から、銀行の内部に整理係という一部門を設置することを提案した。その理由としては、現在の三井銀行のかかえる問題の病原が、全国各地にある支店で国庫の出納金を預かりながら、それを中央に集めて不良貸しを行っていることにあるから、病原を除去するためには、まずこの不良の貸金を回収することと、北海道にまでも増設のおよんでいる支店、出張所を撤廃して、現在見られるような重役による干渉を受けない新部門を置くことが必要なのである。そのために、貸金整理係を設置することが必要だとと述べ、これに関する十二条の規則を提案した。
これに対し、西邑氏はだいたいにおいて同意したものの、現在の三井銀行の貸金は官金取り扱いと密接な関係があるので、そのような事情を考慮しないでむやみに新しいやり方を強要されるのは困る、特殊な事情がある場合には大元締の協議を経てから、という一項をつけくわえてほしい、と言い出した。
そのとき渋沢子爵が私に加担し、そのような一項を設けてしまうと整理係が思うように働くことができないと反論したので、ここで押し問答が繰り返されたが、西邑氏が、万一の場合のためにこの一項を残すのであり、整理係に干渉するようなことは決してしないと誓ったので、ここは西邑氏の顔を立て、とにかく整理係を設置することが決まりこの日の会議が終結したのである。
これが明治二十四(1891)年の恐慌に次いで起こった銀行改革で、三井中興の第一歩はこの会議より踏み出されることになった。
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