五十七
転禍為福(上巻189頁)
明治二十四(1891)年四月、読売新聞に当時の経済界の内幕をえぐる記事が掲載された。そのなかで、三井銀行では滞貨が山積みで内状は危機に瀕している、また第一銀行も同様であると論評された。
また、東京朝日新聞の前身でそのころ本社が京橋区新肴町にあった、末広重恭氏が主筆の国会新聞の、経済担当記者であった桜井駿(のち森本と改姓)が、「現今経済社会の変調」という論説で、おなじく三井、第一の窮迫を論じた。(注・記事掲載は1891年7月3日から7日)
一犬虚に吠えて万犬実を伝えた(注・ひとりがいいかげんなことを言ったのを、おおぜいが真実として伝えること)というだけではなく、じっさい少なからず事実を含んでいたので、ほかの新聞も争うようにこれを取り上げ声を大にして騒ぎ始めたので、三井、第一は非常にあわてた。
当時三井銀行は、全国二十二支店から集めた官金を、東京支店から東本願寺に百万円、三十三銀行に七十五万円貸し出している事実があった。そのほか軍人や官吏を相手に、地所を抵当にした貸付が膨大が額にのぼっていた。
第一銀行でも、渋沢喜作氏に七十万円、浅野総一郎氏に数十万円の、回収困難な貸しがあった。
ここで取りつけ騒ぎが起これば事態は深刻なので、三井でも第一でも対策に追われ懸念するなか、京都三井銀行で、とつぜん取りつけ騒ぎが起きてしまった。(注・7月6日にはじまり、9日に収束)
とうとう日本銀行総裁の川田小一郎氏に嘆願し、取りつけ騒ぎがおさまるまで同行に援助してもらうことになった。これで当面は切り抜けることができたが、一日もはやくこの噂を根絶しなければ、という焦りは大きく、私は新聞記者出身であり、また四か月前に入行したてであったから、いまこそ本領発揮して手柄をたてなければいけないと思い、西邑に相談のうえ新聞各社とかけあい、首尾よく諒解にこぎつけるまで奔走した。
これで三井に対する新聞の攻撃は下火になったものの、第一のほうに火の手が盛んにあがってきた。そのため、第一銀行の行員のなかには、三井ばかりがいい子になるのはけしからんと不満を述べる者もいたが、渋沢子爵がこれをおさえているうちに、ひどかった騒ぎもやっと鎮まり、第一のほうはどうであったかわからないが、三井のダメージはあんがい軽く、京都支店でわずかに二十万円前後の取りつけが起きたに過ぎなかった。(注・高橋が奔走を始めたのは、冒頭の読売の4月の記事が出たあとの、入行から4か月後の5月ごろであったと思われる。本文では「新聞方面に奔走して首尾よく諒解を遂げた」とあるが、実際には、それにもかかわらず7月に国会新聞の記事が書かれ、取りつけ騒ぎが起きてしまったのである。しかし、第一銀行に比べれば、ダメージは小さかった。なお、中上川彦三郎の三井入行は、同年8月である)
しかしながら、この取りつけ騒ぎがきっかけとなり、禍が転じて福となった三井家は、どこまでも幸運な家である。
三池炭鉱(上巻191頁)
三井が明治二十一(1888)年に政府から三池炭鉱の払い下げを受けたことは、同家の中興事業のなかでももっとも重要なものである。
明治九(1876)年に、益田孝【のち男爵】氏が三井物産会社を創立したときは、日本から海外に輸出する品物が少なく、印刷局の製紙をアメリカに輸出したり、三池炭鉱の石炭を香港のバターフィールド=スワイヤー商会やジャーディン=マセソン商会に売り込むくらいが関の山で、おおいに苦心していた。
ところが明治二十一(1888)年になり、政府が三池炭鉱を民間に払い下げることになった。益田孝らの驚きはすさまじく、もしこれを三菱やそのほかの者の手に奪われることになったら物産会社の重要な輸出品を失うことになるので、なにがあっても三井が落札しなければばらないと思った。
そのときの大蔵大臣は松方正義公爵であった。政府のなかで、炭鉱払い下げが議題になったとき、公爵は内心それに反対であったため予定価格を四百万円として内閣会議に提示した。列席の大臣たちはひじょうに驚き、あの炭鉱にそんな高額の入札をする者がいるわけがないと言ったが、松方公爵は、ならば拙者が必ずその相手を見つけてみせようと猛々しく言い放った。
その発表が行われたあと、公爵は三井銀行の西邑乕四郎と日本銀行の三野村利助を三田の私邸に招き、三池炭鉱が非常に有望であることを説明し三井に入札するよう説諭したそうだが、この話は私が松方公爵から直接きいたことである。その日は、夕方から夜中の二時ごろまで協議を重ねたということであった。
この入札では虚々実々のかけひきが繰り広げられた。三井も三菱もその他の入札者も、それぞれ代表者の名で入札を行った。それは明治二十一(1888)年八月のことで、この開札が行われるまで、益田男爵らは心配のあまり、連夜一睡もできないほどだった。
開札の結果は、三井の代表者である佐々木八郎が455万5000円、ある大手筋の代表者である川崎善三郎が455万2500円で、その差はわずか二千五百円で三井に落札したのであった。これは実に三井家にとっての幸運であったといえよう。(注・川崎善三郎は、川崎儀三郎が正しい。「ある大手筋」とは、もちろん三菱のことで、じっさいの入札額は、455万2700円であった。)
即金百万円、残額は十五年の分割払いで、明治二十二(1889)年一月に引継ぎをすませ、当時まで炭鉱の技師長だった団琢磨【のち男爵】氏が、炭鉱とともに三井の人となった。
当時の四百五十万円は、今日の四千五百万円にも匹敵する巨額である。三井がそれを大胆にも引き受けたのは、三井中興の土台が必要だったからであった。そのためにこの入札には、益田男爵の大英断があったのだが、この落札によって炭鉱とともに三井にはいった団男爵がその後炭鉱の経営にあたり、開坑、築港を完成させ、それを三井の宝庫にしていったのであるから、それはどこまでも三井家の幸運であったと言わざるをえない。
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