【箒のあと(全) 目次ページへ】【現代文になおすときの方針

 五十六
三井と井上の関係(上巻185頁)

 井上侯爵はひごろから、三井の興廃日本の財政に大きな影響を持つため、国家的見地から見ても三井の問題をないがしろにしてはならないと公言していた。
 明治の初年に、三井組が小野組、島田組と共同で政府の官金を預かっていたとき、小野と島田が危ないと見てとると、侯爵は三野村利左衛門に注意をうながし、早い段階で共同計算分を分離させ、小野島田の崩壊の影響が三井に及ばないように尽力した。
 その親切に、三野村らが厚く感謝したばかりでなく、三井の主人側にしても味方を得て頼もしく思い、侯爵こそがわが家の重大事の相談相手となる人物だと信じるようになったのである。
 明治二十二(1889)年ごろになり、三井が官金中毒病にかかり、当時の総理であった西邑乕四郎らではとてもその危機を収拾することができなくなった。三井物産会社には益田孝がいたが、当時は三井のほんの一部分を事業を引き受けていただけで、大元締の仕事つまり三井全体を率いる仕事をしていたのは事実上西邑だった。三井の主人の立場から見れば、この難局から逃れるためには井上侯爵に依頼するほかはなかったのであろう。
 山県公爵の前夫人の親戚の石川良平という長州出身者が、三井銀行の監事をつとめていてこの惨状を見ているにしのびず、これを山県公爵に訴えて助けを求めたのであるが、山県公爵は財政のことに詳しくないので、こういうことは世話好きで財政のことにも明るい井上に相談したほうがよいだろうと助言したにちがいない。それで石川が山県公爵の意見を主人たちに伝えたのだろう。
 それで主人たちもそれはもっともだと思い井上侯爵に家政改革を依頼したのであるが、侯爵はおいそれとは引き受けなかった。まず山県公爵をはじめとする政府の高官たちがそのことに賛成するのを見極めたうえで、井上侯爵ははじめてこれに応じるという用意周到なやり方をしたのである。


井上侯の三井改革案(上巻187頁)

 井上侯爵は世話好きの性分で、華族や実業大家の依頼を受けて、その家政を整理したことが何回もあった。代表的なところでは、旧主である毛利公爵家、九州の貝島家、大阪の鴻池家、東京の古河家、田中家がある。
 侯爵の整理案は非常に着実なもので、二宮尊徳流のものだといってもいいかもしれない。まず家憲を作って収支の分配の内規を設け、同族内の者はこれを遵守するものとするのである。
 侯爵は三井に対しても同様の方法をとろうとした。もちろん三井は商家であるから営業上の大改革が必要なのだが、なにしろ西邑乕四郎が全権を握っているので急に手出しをするわけにはいかない。やむをえず、まずは営業面はあとまわしにして家政改革に着手したのである。私が侯爵から三井の家憲制定に関する事務を命じられたのは、すなわちこの部分だった。
 三井の事業には銀行のほかに、鉱山、物産、工業、地所、呉服小売りなどの営業部門があり、そのほか多額の出資をしている会社も数多くあった。その営業損益は、そのときの経済事情によって変化するとともに、家政そのものにも影響を及ぼしていた。
 よって井上案は、三井同族の本体と、その営業部門とを切り離すというものであった。そうすれば、たとえば三井関係の、ある営業部門が失敗しても、その影響が三井同族の本体には及ばなくなる。
 しかしそのような理想的な方法が実際問題として行えるのかどうなのか。侯爵が私に調査せよと言ったのは、実はこの部分をみきわめることだったのである。
 私は、お雇い外国人の法律家で民法制定に功績のあったフランス人、ボアソナードを、そのころ神奈川高島台の貸し西洋館に住んでいたところに訪問し、井上侯爵からの紹介状を見せて来意を告げた。
 ところが、フランスではかつてそのような法規を見たことがないというのが答えだった。かつて、貴族の財産を保護するためにそれに似通った法律を設けたことがあったが、ずいぶん前に廃止されたとのことだった。
 ここではなんら収穫がなく井上侯爵に報告すると、かんたんにはあきらめず、では枢密院のお雇い外国人で商法制定の功労者であるドイツ人ロエスレル(原文「ロイスレル」)に当たってみようと言う。
 そこでまた私が使者に立ったが、今度はドイツ語なのでとうてい私の手には負えず、そのころ枢密院書記官だった本尾敬三郎氏がロエスレルの弟子にあたドイツ法律学者であったので、この人を介して井上侯爵からの質問の趣旨を伝えてもらった。
 さらに井上侯爵みずから面会したいということでロエスレルを井上邸に招き、私と本尾を含めて会見することになった。
 彼は、法律で一家族に特別の保護を与えることはできないが、ドイツの大貴族には、公的な法律ではないが、同族間で習慣的に効力を維持しうる財産管理規則があるから、それを調べて、なるべくご希望に沿うような回答をしようと約束してその日の会見を終えた。
 こうして井上侯爵はまず三井の家憲制定をいそぎ、もっぱらこちらに注力しようとしていたのであるが、そのとき、三井銀行に突然の大事件が降りかかり、家憲どころの騒ぎではなくなり、まずこの事件を解決しなければならなくなるのである。
 これが三井中興事業の発端となる事件で、私の三井銀行入行からわずかに四か月ばかりで私もこれに直面することになったのである。


【箒のあと(全)・
目次へ】【箒のあと・次ページへ