五十五
三井の情勢(上巻182頁)
私は明治二十四(1891)年の一月元日に三井銀行に出勤し、重役たちに年始のあいさつをし同六日から毎日勤務することになった。
当時の三井銀行は東京で建てられた最初の木造西洋館だった。駿河町の表通りからすこし奥まって正面玄関があり、そこから営業部にはいるとその奥が大元締の部屋になっていた。大元締というのは現在の三井銀行の営業部にあたるもので、いってみれば当時の三井の重役室である。幅が三間(注・一間は約180センチ)、奥行きが四間ほどの大きさの部屋だった。その部屋の突き当りの正面に、総長である三井高喜翁の机と、副長である西邑乕四郎氏の机が並び、むかって左には中庭に面した明かり取りがあり、右手の壁には今井友五郎、石川良平のデスクが並んでいた。
この部屋の前、つまり一段さがった営業室のところに、元締の三井元之助【のち高生】と支配人の斎藤専蔵が控えていた。
さて西邑は、私を別格の客分扱いにしたので、自分の机と直角(原文「鉤の手なり」)に私の机を置いて私を座らせた。私は、三井銀行が迎えたはじめての「学校出」の若先生だったから、行員たちは、不思議な人間が舞い込ん出来たものだと不審げに私の行動に目を光らせていた。
私は井上侯爵から、三井銀行にはいっても当分のあいだは、規則やその他の業務を調べることに注力して何事に対しても軽率に発言しないようにし、調査が終わったらまず自分に報告せよとかさねがさね言われていたから、出勤の初日から銀行の規則の研究に専心した。
そしておよそひと月半でほぼ銀行の内情がわかったので、井上侯爵に私の改革の意見を述べようと思い侯爵を訪問した。するとそこで、私はもっと重要な調査の依頼を受けることになったのである。それは、侯爵がまえまえから計画していた三井家憲制定についてだった。
三井家の来歴(上巻183頁)
明治二十四(1891)年、私は三十一歳で三井の人間になった。以来二十一年間、同家に奉公したのであるから、まずこの三井家について述べておこう。
三井家の祖先、八郎兵衛高利は、元禄七(1694)年に七十三歳で死去した。伊勢の松阪から江戸に出てまず呉服店を開き、つづいて京阪と江戸で為替業を始めたのは万治年間(注・1658~61年)の三十代のときだというから、いまから約二百七十年くらい前ということになるだろうか。
この二百七十年あまりという長い年月のあいだには、家も人と同じように病気にかかることがあり、かなり危機に瀕したこともあったのだろうが、幸運にして家業は栄え、明治維新の大変動のときにも、東西の大きな商家が将棋倒しのようにばたばたと倒れてしまった中で、三井は先祖の家訓を守り大名への金貸しを行わず、また同族の共存の主義を守っていたことや、本家が京都に住んでいたので率先して朝廷(注・つまり新政府)の御用をつとめたことで、維新後の羽振りが一段とよくなったのである。
とくに総本家に三井高福という度量の大きな当主がおり、同族にも三井高喜という注意深く機敏な主人がおり、番頭のなかにも斎藤純蔵(注・「純造」の間違いであれば、前出の専蔵と同一人物か?)という老功者の下に、三野村利左衛門という腕利きの傑物がいて危機を乗り切ったので、財界における三井の評判はますます上がるばかりだった。三井は明治十五(1882)年に日本銀行が開設されるまでのあいだ、租税やその他、政府の一切の出納を取り扱っていたのである。
明治六(1873)年に国立銀行の条例が発布されると、三井は第一銀行の大株主になり渋沢栄一子爵を頭取に推した。
同九年には三井銀行を創立し、また物産会社をおこすなど、三野村の画策がすべてうまくいった。
明治十(1877)年に彼が死去したので、養子の利助が利左衛門のあとを継ぎ、日本銀行の創立時には彼が同行の理事になったので、西邑乕四郎が利助のあとを継いで、明治十四年にいたるのである。
しかし西邑は律儀すぎるきらいがあり、時勢の変化に対応する機知に欠けていた。三井銀行は多額の官金を預かっていたが、政府当局者の希望に応じて、商業とは無関係の情状貸しを余儀なくされることが起こっていた。また当時は民間に、そのような官金を健全に商業で運用する余地がなかったこともあり、政府から預かったものは返さなくてはならないのに、よそに貸したものをかんたんには取り戻せないという羽目におちいっていた。
私が入行した明治二十四(1891)年ごろには、いわゆる官金中毒病がすでに骨の髄に達しており、銀行経営が危険な状態になりつつあった。
この状況に気づきはじめた主人のほうは、維新後の三野村利左衛門との関係のために三井に好意的で、かつ財政上のもっとも有力者であった井上侯爵に依頼して、大事にいたる前に革新を実現しようとしていた。井上侯爵が私を三井に入れたのは、この革新の仕事に当たらせるためだったのである。
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