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 第四期 実業 明治二十四年より三十四年まで

  五十四
三井入りの経緯(上巻179頁)

 私が三井にはいるという話は、明治二十三(1890)年十月ごろに、その端緒が開かれた。それより以前、私は欧米商業視察の結果を「商政一新」という著書にして日本の商業組織革新を論じて発表していた。当時としてはかなり先端的な実業論だったが、それを井上馨侯爵が読んで共鳴され、しばしば私を自邸に招きわが国の財政に関するこれまでの経験や将来の方針について語られていたのであるが、もともと世話好きな侯爵であるから、まずはわたしの結婚相手に有名な実業家の娘を紹介しようと言い出して、その相談のために当時侯爵が建てられたばかりの上州(注・群馬県)の磯部の温泉別荘に呼びつけられたのである。
 この別荘は侯爵の気に入らなかったようで、ほどなく興津に移られることになり建物も移築したのだが、わたしの結婚問題も先方に先約がありそのまま立ち消えとなってしまった。
 しかし侯爵は私に何か世話してやりたいと思われたのか、そのころ侯爵が三井家の当主から同家の財政革新を依頼されていたのをさいわいに、私をこの任の先頭に当たらせるということで同家に採用してもらおうとしたのである。
 十一月上旬私は侯爵に招かれ、三井家の歴史や維新における同家の行動、また維新後に侯爵が大蔵大輔だったときの三井の大番頭だった三野村利左衛門との関係から現在の状況にいたるまでの話を、ほとんど三時間にわたってきくことになった。
 そして侯爵が「あまり思わしい働き場所ではないかもしれないが、とにかく日本屈指の旧大家であるから、君が一骨折ってみようと思うならさっそく三井家に交渉してみよう」と言う。侯爵が三井家のことを「思わしい働き場所でもなかろう」と言われたことからも、当時の三井が腐った大木のように、ともすれば崩壊してしまいそうな状態であったことがわかるだろう。
 私はこのような勧誘を受けて、日本の長者番付の横綱である三井の家運の挽回のために力を貸すのは非常におもしろい仕事だと思ったので、とにかくひと働きしてみましょう、と快諾したのである。

 井上侯爵は喜色満面で、ならばそのことを三井と深い関係のある渋沢栄一と三井物産会社の益田孝に伝えておくから、そのうちふたりに会見しなさい、ということになり、これでわたしの三井入りが決まったのである。

 

三井入りの試験(上巻180頁)

 井上馨侯爵は三井の財政革新の先頭に立つ者として私を三井に入社させようとした。さっそく私のことを渋沢、益田の両人に伝え、一度高橋の面接をし三井においてどのような仕事を担当させるかを考えてほしいと申し渡した。
 明治二十三(1890)十二月二十日ごろだったと思うこのふたりが焼失前の帝国ホテルで三井関係の実業家たち十数名集めて小宴会を開いた。その席で、欧米の商業視察報告をしてほしいと私に依頼されたので、だいたい「商政一新」の中で述べたことを話し、日本の各商業機が、その年に始まる議会政治と足並みをそろえて円滑に発展する必要がある理由を三、四十分演説した。
 渋沢、益田の両人をはじめ列席ののひとびとは、それはしごくもっともな話だと同意し非常に好感を持たれたようだった。こうしてこのふたりにより、私の試験結果が三井の主人やそのときの総理であった西邑乕四郎(注・にしむらとらしろう)らに報告されたようで、暮れも押しつまった二十七日の午前十時ごろだったと思うが、渋沢子爵が私を兜町の渋沢事務所に呼び、「君の三井入りがいよいよ決定したから、拙者が同道して紹介することにしよう」と言って、用意してあった馬車で、当時の東京で屈指の西洋館で「ハウス」と呼ばれていた駿河町の三井銀行に連れていってくれた。その二階の大広間で、私は総長の三井高喜、副長の西邑乕四郎、幹事の石川良平と今井友五郎、支配人の斎藤専蔵との会見を行った。
 そのときの渋沢子爵はいつもどおりの懇切丁寧な調子で、三井家の歴史から、自分と三井家、あるいは、同家の大番頭である三野村利左衛門と自分の関係などを説明した。また列席の重役に向かい、井上侯爵がわざわざ三井家のために洋行帰りの新人である高橋氏を入行させようと好意を示してくれているのだから、諸君は決して反感などを持たずに高橋氏が働きやすいようにしてほしいという希望を述べながら私のことを紹介してくれた。

 さまざまな協議の上、私は翌年の一月はじめから出勤することになった。そのことにより私はようやく職業にありつき、それまでの書生放浪生活を明治二十三(1890)末で打ち切ることになったのである。


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