五十三
山県有朋公(上巻172頁)
私を井上侯爵に紹介したのは親友の渡邊治であったが、その後、井上侯爵から山県公爵に紹介してくれるよう取り持ってくれたのも渡邊だった。こうして私が山県公爵に面会したのは、公爵が欧米視察を終えて帰国した明治二十三(1890)年の春の、まさに内閣を組織しようとしていた直前の多忙な時期だった。今の帝国ホテルの一角の、日比谷公園の向かいにあった内務大臣の官邸である晩に会見することになった。
食後の七時ごろに訪問し着座すると公爵はすぐに口を開き、
「俺は軍人であるから、サーベルのことは、いささか人に向かって談話する資格があるが、政治のほうは、なはだもって不得意である。井上からきけば、君は西洋の商業を視察してきて『商政一新』という著書もあるそうだから、今夜はゆるゆる、その所見をうけたまわりたい。」
と言われた。
そこで私は、日本がいよいよ議会を開いて立憲政治を施行する以上、社会の諸機構もそれに応じてことごとく立憲的にならなければならない、しかし実態は政治だけが立憲で、その他の社会組織がそれについていけないおそれがあるので、少しでもはやくこれを改善しなければならないという見地から、実例をあげて、ほとんど二時間くらいしゃべり続けた。
公爵はときどき相づちを打たれるくらいだったので、私は山県という人は、自分で言われるように、ただの武官(注・山県は自分のことを「一介の武弁だ」とよく口にしていた)で、政治問題などについてはあまり議論しない主義なのだと思ったのであるが、これは後年になって大きな誤解であることがわかった。
こうして私が山県公爵と会見したあと、一日か二日して井上侯爵に面会すると、侯爵は、「昨日、宮中で山県に会ったが、君のことを非常にほめて、一度で親しくなったと言っていたよ、山県は俺とは違って、人に会うときには軍人的な手順を踏んで、まず城門の前でいかめしく会見し、次に第一の砦を開いて引き入れ、次に第二の砦を開くというやり方をするので、腹の内を見せるまでには時間がかかる方なのに、君に対しては珍しくはじめから十分に話したらしい。」と語られ、侯爵自身も満足なようすだった。
これが山県公爵と私の初対面である。最初の会見の感じがよかったせいか、その後公爵とは、公私ともに用があるというわけではなかったのに交際はずっと続き、晩年に近づくほど親しさの度が増したのは相性がよかったからだとしかいいようがない。
陸奥と山県(上巻174頁)
山県公爵は、明治二十三(1890)年の最初の議会に当たり、伊藤公爵らの勧誘に応じて内閣を組織することになり、陸奥宗光【のち伯爵】を農商大臣に登用した。(注・山県が内閣を組織したのは明治22年の暮れ、最初の帝国議会開催は23年11月29日)
公爵は、議会開設の前に、商業会議所条例を発布しようとしており、私に対し「君はわが国の商業会議所組織を英国流にしようと言うのだが、陸奥の案はドイツの制度を多分に取り入れているから君のとは衝突するかもしれない。しかしこれを発表したあとに、あれこれと議論があるのはおもしろくないから、その前に一度陸奥と会談して君も賛成してもらいたい」ということで、六月初旬だったかに夕食後、椿山荘を訪問した。
あの広大の庭に面した日本座敷に通され待っていると、公爵は陸奥氏といっしょにやってきて座られた。私は陸奥氏と初対面のあいさつをし、今度発布することになっている商業会議所条例についての陸奥氏の説明をきいた。その条例文も見せてもらったが、だいたいにおいて私の考えと大きく違うところはなかった。
陸奥氏の条例案はドイツ流で、課税により会議所の費用を維持するしくみだ。私のはイギリス流で、商業会議所のある都市の有力者の寄付金で維持するというものだった。この点につき押し問答を重ねた結果、ようやく双方の意見が一致した。これが現行の商業会議所条例である。
さてこのとき私の印象に残ったのは、陸奥、山県のふたりの対談のやりとりの態度だった。
山県公爵は私などに向かっては非常にていねいな言葉を使うのに、陸奥氏に対しては、ほとんど親分と子分のような口調である。公爵が、「貴様は、ときどき約束をたがえるから、油断がならぬ、今度のこと【その当時何かの懸案問題があったらしい】でもそうではないか」と言うと、陸奥氏はさかんにに謝り「決してさようなわけはありません、閣下がご信用に相なる以上は、私は必ず精一杯にやりとげます」などという具合だった。それがとてもおかしかったので、私は、維新の前後の変化の大きかった世の中をくぐってきた人物同士の間には、今日の政府官僚の中では見ることのない、一種独特の人間関係があるのだなあ、と思ったものだった。そこでは、陸奥氏が山県公爵のご機嫌取りをしながら自分の才能を発揮しようとして、悲惨なまでの苦心をしていることを見て取ることができるのだった。
このとき目をあげて広々とした庭を見ると、わざわざ放たれたとみえて、蛍が暗闇に点々と飛び交っていた。それは、こちら側で両雄が対座しているのと異様な対照をなす光景であり、これを絵巻物に描いたなら一幅の名画になっていたであろう。
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