五十二 初見の井上馨侯(上巻169頁)
私のことは渡邊治からすでに井上侯爵の耳にはいっていたが、まだ会見にはいたっていなかった。そのころ私は吉川泰次郎氏に連れられ、明治二十二(1889)年の暮れに大阪に赴いた。翌二十三年の一月、私は年初を須磨の保養館で四、五日休養しようと大阪から汽車に乗った。するとその汽車に偶然井上侯爵が乗っていたので、神戸までの車中で吉川泰次郎氏が私を侯爵に紹介してくれた。
侯爵は何年か前に伯爵になったとき、藤田伝三郎、松本重太郎、田中市兵衛、磯野小右衛門ら、侯爵といちばん親しい大阪の会社経営者から、むかしの殿様が着ていたような鼠地綾形模様の紋付と仙台平の袴、黒の五つ紋付羽織を贈られていた。それを今回、彼らに見せようということで着用されていたが、私に対しては、いたってていねいに挨拶してくださり、かねてからお名前をきいているので腰をおちつけてお目にかかりたいと思っているが、これから三月ごろまで長州(注・現山口県)に行っているつもりだから、東京に戻ったらゆっくりお話ししましょう、と言われた。
侯爵とは神戸で別れたが、その後予定通り三月になり帰京されたので、約束どおりに侯爵の麻布鳥居坂邸を訪問した。このときは鳥居坂西側の邸宅の改築中で、向かい側にある邸宅に仮住まいされていた。その庭は一面青々とした芝生で、客間の床の間に何やら大きな仏画がかかっていた。
私はイギリス滞在中に、ボウズ氏の美術館で日本画の研究をしてきたので、さっそく、その仏画の前に座り、それに見惚れていた。すると、そこへ井上侯爵がはいってきて、君はそんなものが好きなのか、と不思議そうな顔をされ、同時に、ずいぶん話のわかる奴ではないかと言わんばかりに、非常に好意的に私を迎えてくれたのである。
侯爵は、自分はいたって単純な性格で、初対面のときから腹の中を打ち明けて話をする流儀なので今日もなにもかも隠し立てせずに話す、と言われた。
「俺は、元来友人となれば、どこまでも親切にする。また敵となれば、これを打倒しなければすまないという、もって生まれた性質があって、いいのか悪いのか自分にもわからぬが、とにかく今日まで少しもかわるところがない。そのために敵から憎まれるばかりでなく、あまりに親切が過ぎて、こうだと思うと、口を割ってでも薬を飲ませるようにするので、味方からも、よく嫌われるようなことがある。つい先ごろも、黒田(注・黒田清隆)が、酒に酔って俺のところに押しかけてきて、玄関で声高に、国賊と口走ったことを聞き、そのときは留守であったが、帰宅ののち、さっそく短刀を懐にして、黒田のうちに押しかけていったが、実は彼と刺し違えるつもりであった。しかし彼が留守であったから、よんどころなく引き返してきたところへ、西郷(注・西郷従道)が中にはいって、しきりに詫びを言うものだから、俺はとうとう容赦してやったが、相手が強ければ強いほど、俺はますます強く出るのが、持って生まれた性癖である。」
というようなことであった。
それから十日ほどのち、一度ゆっくり会いたいと言われたので再び侯爵を訪問した。すると、今日はすべての来客を断ったからのんびり話すことにしよう、君はすでに外国の商業事情を視察してきて、これから日本の経済界で活躍するつもりだろうから、俺が維新のはじめに大蔵大輔として日本の財政整理をしたときのことを、詳しく君に話しておこうと言って、それから、維新後の財政状況や、諸藩札の始末についての苦労談をきかせてくれた。
また太政官札(注・慶應四年五月から発行された政府紙幣)が信用をなくして紙幣同士に大きな価値の差が出てしまったとき、内閣会議の席上で三日以内に紙幣の相場を同一にしてみせると断言し、その夜、横浜から糸平【田中平八】を呼び寄せて、彼に内々に太政官札を買い上げさせ、同時に、ほうぼうに手を回して太政官札の取引に差をつける者を懲罰する方法を考え、予言したとおりに太政官札を額面通りの価値で流通させることに成功した苦心談を話された。
その日は午前十時ごろから話しはじめ、昼食をともにしたあと再び話し続け、三時半になっても侯爵の談話はまだ終わらなかった。それを見て、私は侯爵の気力の旺盛さに感服したものだった。この時の侯爵は五十八歳で、これが私と井上侯爵とが知り合った最初のころの話(原文「序幕」)である。
「箒のあと」52 初見の井上馨侯
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