五十
薩摩の豪傑(上巻162頁)
私の海外視察の二年半の旅行中には、いろいろなところで日本人に出会った。海外で同国人に会うと互いになつかしく感じるもので、日本にいるときには親しくなる機会がないような人とでも古くからの知り合いのように感じるのが常である。ここで今、いちいち名前を挙げる必要もないのだが、そのなかで、薩摩の豪傑、奈良原繁【のち男爵】翁のことを記しておこう。
氏がロンドンに滞在していたとき私が宿を訪ねてみると、ひとりの随行者はいたものの土地に不案内のため、ひまを持て余して「日本外史」などを読んでおられた。わたしは心の中でロンドンに来てまで日本外史を読むこともないだろうに、とおかしく、そのころ私はだいぶ土地に慣れてきていたので、この日から一週間ほどのあいだガイド役になり、いろいろなところに翁を案内し名所見物の手伝いをした。
翁はそのことをとても喜び、私が明治二十二(1889)年の秋に帰国すると、翁はすでに帰国し日本鉄道の社長となり飛ぶ鳥を落とす勢いであったのだが、ある晩に私を芝の紅葉館に主賓としてむかえ、十数人の知人を招いて会合を開いてくれた。
翁は維新の前、島津久光公の命令に従わない藩臣の数名を始末するため、伏見の寺田屋に行き、真っ裸で中に飛び込み彼らの肝をつぶし、うまいこと使命を果たしたという。これがいわゆる寺田屋の騒動で、翁がその豪傑ぶりを発揮した一幕だったそうだ。
さて翁は、久光公のそばに仕える家来として非常に勢力があり、西郷、大久保にさえも、しばしば敵対するような力をもっていたということだ。そのせいで薩摩の長老でありながら維新後にあまり重用されることがなかったのを、松方正義公爵が後押しし翁を日本鉄道会社の社長にしたということであった。
しかし翁には酒癖の悪さがあり、飲みすぎたときにそれが現れてしまうことがあった。この晩も、牧野信顕【のち伯爵、現内大臣】氏が宴会のあとに友人と碁を囲んでいたのをみて、客に対して失礼だろうと言い出し、コップを手にして今にも飛びかかりそうになった。そのとき牧野氏は、翁の怒鳴り声を神妙に聞き流し、やわらかな物腰で翁の攻撃をかわしていた。この落ち着き払った冷静さを見て、私は、さすがは利通侯爵の子だと思った。当時は外務省の局長くらいだったが、将来かならず大きな仕事をする人物になるだろうと思われた。
さて翌日、奈良原翁は前夜の行いを後悔し、牧野氏に会いにいって何度も頭を下げてきたと後日私に話してくれた。酒癖は酒癖として、後輩に対して、迷わず自分の非を詫びるところに翁の純粋な誠意を感じる。
翁はこの酒癖がいけなかったのかどうだか、その後松方公爵ともうまくいかず、最後には沖縄県知事となって晩年を送った。せっかくの能力を発揮しきれなかったようなところがあり残念だが、とにかくも、翁が薩摩隼人の面影を残す豪傑であることにかわりはない。
商政一新(上巻164頁)
私はヨーロッパに滞在中に欧州諸国の商業組織を調査したが、日本ではいよいよ議会が開設され近い将来には立憲政治国になろうとしているのに、商業組織に関しては封建制度がそのまま残り、なんら改革の準備がなされていないことを憂えた。社会の組織は、さまざまな分野で互いに足並みがそろっていなければ順調に発達することができない。政治だけが立憲だと言っても、経済の各機関がこれについていかなければ国家が円満に進歩していくことはできない。私は、現在の急務は商業の一新である、という見地から、商業会議所、商工組合、信用興信所、その他の商業機関を改革する方針をくわしく述べた著作を出版した。(注・「商政一新」明治23年)
当時、洋行帰りの新人と見られていた私の著述は、ちょうどわが国の経済社会の革新運動に向かおうとしていた時期に重なり各方面からかなりの反応があった。親友の渡邊治がこの本を井上馨伯爵に渡したところ伯爵はこれを通読され、いままでの学者の議論は、苦言の言いっぱなしで善後策が示されていなかったのに、「商政一新」は旧弊を説くと同時に救済の方法も示しており、わが意を得たりであるとことのほか称賛されたそうで、伯爵が私のことを知ってくださったのも実はこの著作のおかげだった。
山県伯爵が明治二十三(1890)年に商業会議所条例を制定されたときに私に諮問されたのも、伯爵がこの著作のことを知られたためであった。この著作は私の一身にとり、非常に有利な働きをしてくれたのである。
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