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 四十九
副島種臣伯(上巻159頁)

  私は明治二十(1887)に渡米したとき、当時ロンドンの日本公使書記官だった鍋島銈次郎氏に連れられてイギリスに留学しようとしていた副島道正氏【のち伯爵】と同船した。道正氏はそのころ十五、六歳の少年だったが、私がその後ロンドンに滞在しているころは、ケンブリッジ大学への入学準備をしているときで、あの天文台で有名なグリニッチにある家庭教師の家に寄宿していた。
 私はある日、天文台の見学を兼ねてグリニッチに赴き、道正氏の寄宿先を訪ねて一日過ごしたことがあった。これは明治二十二(
1889)年の五、六月のことで、私はもうすぐ帰国するときだったので、日本にいる父君に手紙や伝言を頼まれた。

 そこで私は帰国後、当時京橋区越前堀に住んでおられた副島種臣伯爵を訪問した。はっきり覚えていないのだが、庭に池がある屋敷で木造の古い日本家屋の広間に通された。待つほどもなく出てみえた老伯爵は、ごま塩以上に白い頭髪で、いかにもいかめしい顔つきが絵で見る神農(注・医療と農耕の神)に似ていて、なんとなく古代の人に接しているようだった。あまり大柄には見えないが、そうかといって小柄でもなく、座られるやいなや私が持参した愛息の手紙を受け取り、また伝言を聞かれてとても満足されたようすであった。
 私はかつて、この老伯爵の詩を読んだことがあった。なかでも、

   金華松島奥東頭 自古風雲向北愁 日本中央碑字在 祇令靺鞨入何州


と言う作品が、いかにも規模雄大で感服していたので、この機会に老伯爵のお話を伺いたいと思い、西洋見聞のはなしからいろいろな時勢談にうつった。

 そのころ私は時事新報に「西尊東卑」という題の論説を書いていたが、その前には「男尊女卑」という、これまた私が作った題名で時事新報にいろいろと議論していたのであるが、近頃の欧化政策は勢い余り、ひとびとが、ややもするとヨーロッパに心酔しすぎて、なんでもかんでも東洋の習慣を蔑視する傾向があることから、男尊女卑から転用して西尊東卑という語を作ったのである。そして、新帰朝者として、むしろ逆に西洋の悪いところを攻撃していたのである。
 この論説に、老伯爵が非常に同感されていたようで、だんだん話していくうちに、あの論説はあなたが書いたのですか、ということになり、それからいよいよ真剣にさまざまな問題について議論されたのだった。
 しかしどんな豪傑でもわが子のかわいさにはひかれるようで、とくに遠国に留学中の愛児に対する心配は大きかったようで、話の切れ目切れ目に道正氏のようすについて根掘り葉掘り質問された。その愛情深さに私は感激し、氏に対するいっそうの尊敬の念を深めたのだった。私が出会った大家のなかで、この老伯爵ほど神々しく、古代の人に接しているような感じを抱かせる人物はいなかったのではないかと思う。
 


老伯の歌才(上巻
161頁)

  
 副島老伯爵の話が出たついでに、その文才についての名誉あるエピソードを記しておく。あるとき伯爵が、皇后陛下【のちの昭憲皇太后】の御前に出たとき、皇后陛下から伯爵に、さいきん天皇から「二人挽きの人力車に乗って早朝亀戸の梅見にでかける」という和歌のお題を賜ったが、ひどく難題なので、歌が詠めなくて困っている、とのお言葉があった。そのとき伯爵は、なんの躊躇もせずに、陛下に対し、歌というものはあまり深く考えずに、ただありのままにお詠み遊ばすのよろしかろうと存じます、と言い、ただいまそのような愚作を申し上げるなら、

       
   二人して挽けや車子亀戸の 梅の林の朝ぼらけ見む


となさってはいかがでござりましょうか、と即座に言上したので、皇后陛下もことのほか伯爵の歌才にご感心あそばされたそうだ。

 伯爵は漢学に造詣が深く、とくに先秦文学(注・中国の秦以前の文学の総称。詩経、書経、春秋左氏伝、孟子、老子、荘子、楚辞など)を究め、長編大作の詩をたちどころに作り、しかも一種の古調を帯びていたことは世間の定評になっていたが、和歌にもこのような素養があったことは誰も知らなかったので、これをもれきいた人は、いまさらながらに伯爵の文才に驚いたということだ。
 このエピソードは、かつて長く宮中につとめた薩摩の吉井友実翁から下條桂谷画伯が聞き、わたしに話してくれたことなので、事実に違いないと思っている。


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