四十八
洋行帰りの新人(上巻156頁)
私は明治二十二(1889)年九月にインド洋経由で帰国すると、わたしのいないあいだに時事新報を去って山陽鉄道社長になられた中上川彦次郎氏に会い、また同じく時事新報を去って大阪毎日新聞を経営しつつあった親友の渡邊治に面会し、二年間の留守中にあったできごとについて話を聞いた。渡邊がすこしのあいだにひとかどの出世をし、山県有朋伯爵【のち公爵】と知り合い、政治的なことで意見の一致を見、毎日新聞の経営もじつは山県伯爵らの後援によるものであることを知った。
また東京に帰ると、福澤先生からは驚くばかりの歓迎を受けた。私のロンドン滞在中の通信に対して非常なおほめの言葉をいただいた。先生のお宅で旧三田藩の九鬼隆義子爵を招いた席上で、とくに私を子爵に紹介してくださり、いつもは私たちのことを姓名で呼び捨てにせず「あなた」と呼ぶのに、このときは、いかにもかしこまった態度で、「これは今度ロンドンより帰朝した高橋義雄でございます」と、わが弟子らしく九鬼子爵に紹介していただいたことを私は非常にうれしく感じたものだった。こうして私はしばらくのあいだ客員の資格で時事新報に執筆することになった。
このとき、外国からかえってきたばかりの新人の私にラブコール(原文「秋波」)を送ってくれたのが日本郵船会社の副社長だった吉川泰次郎氏だった。氏は、当時東京の財界を支配し一大勢力になっていた、渋沢栄一氏【のち子爵】、益田孝氏【のち男爵】らに対して、川田小一郎氏【のち男爵】を首脳とする一グループを作ろうとしていた最中で、そのグループに引き入れる目的で私に注目したのだろう。
ところが私は、帰国後すぐに腸チフスにかかって帝国大学病院に入院し高熱が一週間おさまらず十一月末にようやく退院した。それまで待ちに待っていてくれた吉川氏は、欧米諸国の商業を視察してきた私を大阪方面の経営者に紹介しようと私に同行をすすめたので、私は十二月中旬から氏とともに大阪に赴いた。
そして翌年の一月十日ごろまで大阪に滞在したり須磨に避寒したりしながら、大阪の経営者たちと交流した。また阪神間の汽車の中で、井上馨伯爵【のち侯爵】にも対面する機会があり、帰京後にまたゆっくりと会談することにもなったのである。
英国風俗鏡(上巻158頁)
私は明治二十二(1889)年八月に帰国したあとも、イギリス滞在中に時事新報の記者をやっていた関係をそのまま継続し、客員の資格で社説を寄贈していた。そのあいだに、イギリスで見聞してきた風俗について記述して、「英国風俗鏡」という本を出版した。
小著ではあったが、イギリスのすぐれた点について述べたものだった。たとえば、イギリス貴族の住居を訪問したとき、客間や食堂にその家の先祖の文勲武功を描いた油絵の額が掛けられ、いつも子供たちが教訓を得られるようにしてあること、またオックスフォード大学では一週間に一度の学生と教授の晩餐が、歴代の校長や同大学出身の偉人の油絵を掲げた部屋で行われ、知らず知らずのうちに先輩の感化を受けるようにできていたり社交上の礼法を見習えるようになっていること、さらにテンプルの弁護士協会では、三年間のあいだ仲間との定期晩餐会に出席しないと弁護士の資格をもらえないというような社会教育を重視している点が見られ、教育とはつまり英国紳士を製造することだ、という美風がある点を賛美したものだった。
またイギリスの家庭は、いわゆる「ホーム」という言葉がそのままあてはまるように、中流の家庭には必ずピアノその他の楽器があり、家族に共通の音楽趣味ができあがるようにしてあるため、私などがヨーロッパ大陸を旅行してイギリスに戻ったときは、なんとなく第二の故郷に帰ってきたような心持ちがしたもので、そのような風習を日本にも移入したいという希望を書いてみたのである。
なお私は、当時のイギリスを視察して、同国の貴族のなかの最高峰の見本となっているウエストミンスター公の別邸を観たが、その広壮さにおどろいたものだ。またスコットランド地方を巡回しているときに、貴族が所有する別荘が何キロにもわたっているのにも驚いた。
イギリスでは、日本の大名が明治維新のときに版籍奉還とともに私領地も奉還したのに対し、封建時代の貴族が所有財産をそのまま領有しているので、これがはたしていつまで続くだろうかと疑問に思った。いつか必ず社会問題になり、貧富の差が激しい現状の制度が崩壊する時期がやってくるに違いないと予想したものだが、欧州大戦(注・第一次世界大戦のこと)のあと、やはり予想どおりそれがようやく現実になった。これはむしろ、遅いくらいだったと驚いた次第である。
【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ】
コメント