【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

 四十五

英国の美術家(上巻145頁)

  私はリバプールに滞在中に、名誉領事ボウズ氏の日本美術館で偶然にも日本美術を研究する機会を得て、このときから大の美術愛好者となった。ロンドンをはじめ、どこの大都市に行ってもかならず美術館を訪れ、油絵や彫刻を見ることがこの上ない楽しみになった。
 明治二十二(1889)年の春、リバプールで全英美術家大会が開かれた。その会長であるロイヤル・アカデミー総裁のサー・フレデリック・レイトン氏や、当時のイギリスで神のごとくに尊崇されていたアルマ=タデマ氏が来会し、私はボウズ氏に連れられてこの大会に出席することができた。
 このときの講演でレイトン氏は日本絵画についても言及した。日本画に描かれる人物はたいていデフォーム【奇形】だ、七福神などを見ると、頭が長い者、背が低い者、耳が大きい者などふつうの人間とは違っている、これはおそらく日本人がそもそも奇形なので、絵画中の人物もそうなるのだろう、と述べた。するとボウズ氏はぶつぶつとノー、ノー、を連発し、非常に不満なようすだった。当時は日清戦争の前で、一般的なイギリス人は日本についてなにも知らず、東洋にある中国の属国か野蛮な一島国かくらいに思っていたであろう。このようなことがありボウズ氏は怒りが心頭に発して、日本美術がどういうものであるかを彼らに見せようと、氏の美術館を開放して彼らを招待することにした。そこで私はフレデリック・レイトン氏やアルマ=タデマ氏とも握手する機会を得た。
 このときレイトン氏は日本美術館を見まわし、ふんと鼻であしらっていたようだが、アルマ=タデマ氏のほうは、当時五十歳前後の立派な容貌の人だったが、ボウズ氏の説明に耳を傾けていた。ボウズ氏も、この人ひとりが注目してくれればそれで十分だと言わんばかりに、アルマ=タデマ氏をメインに案内していた。
 アルマ=タデマ氏のロンドンの住居の各部屋の扉は、イギリスの有名な美術家が彼のためにデザインしたもので、美術界では有名な話なのだそうだ。
 サー・フレデリック・レイトンの描いた油絵を、そのころリバプール市が、市立美術館の収蔵品として、八千ポンド、つまり日本円で八万円で買い入れたそうだ。たて六尺(注・一尺は約30センチ)、よこ四尺の大作で、ギリシャ人の女性が楽器をかかえ岩に腰かけている絵で非常に有名なものだったが、私は彼が日本人を侮辱したような講演をして不快感を持ったためか、この絵を見て、なんとなく柔軟さに欠けているように感じた。
 私はグラスゴーでも開催されていた絵画展覧会を観たが、イギリス人の油絵はフランス、イタリアとちがい山水の風景画が多く、例の、裸体美人であふれかえっているヨーロッパ大陸の絵画展を見るよりも、私などはとても目に快いと思ったものである。


巴里の瞥観(上巻147頁)

 私は明治二十二(1889)年五月末にイギリスを出てパリに行った。三週間かけて、開催中の万博や市内の名所旧跡を見てまわった。
 そのときのパリ駐在の日本公使は田中不二麿子爵だった。名古屋人であり、かつて文部卿をつとめたこともある人で、豊かな立派な容貌の持ち主で、パリを訪れる日本人の世話を親切にやってくれるので評判がよかった。
 このときのパリ万博は、あの有名なエッフェル塔が建設されたときだが、私が行ったときにはまだ半分しかできあがっていなくて
300メートルの塔の180メートルのところまで登ることができた。

 パリの名所は、ノートルダム寺院、パンテオンのナポレオンの墓、オペラ座、リュクサンブール美術館、ルーブル美術館、ルイ十六世の旧跡が残るベルサイユ宮殿など枚挙にいとまがないが、私にとっては、例の観劇と美術館巡りが滞在中の仕事の半分以上を占め、リバプールで兆しを見せた私の美術鑑賞病は、このときすでに手のつけられない状態になり(原文「膏肓に入り」)かかっていた。そのことをくわしく話し始めるときりがないので省略する。
 ベルギーのブリュッセルに行き、そのころ益田太郎氏が在学中だった有名な商業学校や港湾の設備などを見学してイギリスに引き返し、あいかわらず、このヨーロッパ大陸旅行の見聞録を時事新報に通信していた。このロンドン通信は、当時かなり注目度が高かったらしく、帰国してからも、ときどきその評判を耳にすることがあった。
 ドイツ、ロシア、イタリア、トルコ、バルカン半島への旅行も考えていたのだが、あまりに多額の援助を徳川篤敬侯爵に願い出るのが心苦しく、また別のときに来ることを胸に秘め、八月の末に帰国することを決心した。そのときあるイギリス人の友人が、八月にインド洋を航海するのは、えらくたいへんではないかと言ったが、私は、トルコ風呂に一か月はいっていると思えばよいではないか、と笑って、いよいよ帰国の途につくことになった。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ