四十四 外国名優の印象(上巻142頁)
私は、アメリカ滞在中は生糸直輸出の調査と都市の商業機関の研究に専念しほかのことに目を向けるひまがなかったが、イギリスに渡ってからは商業のことだけではなく、政治、社会、風俗にも目を向け、貪欲にそれらを吸収しようとつとめた。特に演劇にはもっとも興味を持ち、ロンドンはもちろんのこと、リバプール、グラスゴー、エジンバラなどいたるところで劇場に行った。
当時のイギリスにはヘンリー・アーヴィングという名優がいた。芸術のためにナイトの称号を得た(注・アーヴィングがナイトに叙されたのは1895年。原文では男爵となっているが誤り)ほどで、その芸風が、わが国の市川団十郎に似ていたので、私は彼の演技をよく見て帰国後の土産話にしようと思い、滞在中にはアーヴィングの芝居は全部見た。
アーヴィングの相棒にはエレン・テリーという大女優がおり、演技のうまさでは、もしかしたらアーヴィング以上であったかもしれない。
このふたりはロンドンのライシャム劇場(注・ Lyceum Theatre)に出演していたが、わたしが観劇したのはシェークスピアのハムレット、ヴェニスの商人、マクベスや、ゲーテのファウストや、そのほか題名は忘れたが泥棒が仮装し宮殿の舞踏会にはいりこみ、賓客の身に着けていた宝石類を手あたり次第盗み取るという内容の芝居などであった。
アーヴィングは、やせて骨ばっていて背が高かった。「ハムレット」でのハムレット役では背が高すぎてあまりさまにならなかったが、ヴェニスの商人のシャイロックやマクベスなどは適役で、眉間に八の字のしわを寄せて険悪な顔になると、鬼気迫るようなすごみを感じさせた。
彼は所作がすぐれているだけでなく英語のせりふが非常に洗練されていて、それが上流社会の好評を得る理由なのだそうだ。それに相当の学識もあり、ひごろから文学上の研究を積んでいるため、人格的にはっきり他から抜きん出ていたそうである。
エレン・テリーは涼しげ(原文「薄手の」)な、いかにも気の利いた風貌で、マクベス夫人やポーシャなどに扮すると表情豊かでうまく、せりふもはっきりして、かつすがすがしく、当時私が見た外国女優のなかで彼女ほど魅力的だった人はいなかったと思う。その後フランスでサラ・ベルナールのトスカなどを観たが、サラは虎を飼っていたというくらいで気性の強い女性で、目が特徴的に鋭く、トスカがスカッピアを殺す場面などでは、そのすごみで観客を圧倒し息もつけないような緊張感を生み出した。しかしそれだけに女優としてのやわらかみには欠け、なんとなく余裕がないように感じた。だから私は、サラよりもむしろエレン・テリーに、より多くの興味を感じたのである。
そのころアメリカに、年が四十くらいのマンスフィールドという俳優がいたが、ロンドンで「ジキル博士」という当時の新作を上演した。どういう芝居かというと、ジキルが自分の発明したある薬を飲むと、人間の善の部分が消滅して悪の部分だけの存在になり、同時に善の部分が減った分からだが縮んで非常に凶悪な容貌になるのである。この善相から悪相に変化する早変わりをやるのに、なんのしかけも使わず、ただ手のひらで顔をひとなでして、前にかがむだけで、からだが収縮すると同時に顔も完全に一変するという巧妙な演技には、まったく敬服するほかはなかった。私は帰国後のあるとき、五代目菊五郎にこの話をし、一度早変わりをやってみたらどうかと勧めたことがあり、彼も非常に喜び、一度やってみましょうと言っていたのだが、ほどなく亡くなってしまい、ついに実現にいたらなかったことは残念だった。
わたしはまたスコットランドのエジンバラに遊びにいったとき、興行中だった「湖上の美人(注・スコット原作のロッシーニ作曲のオペラか)」を観たことがあったのだが、これはスコットランド第一の人気詩人であるウォルター・スコットの傑作で、スコットランドのジェームズ王の事蹟を物語にしたものだった。湖上の景色をうまいこと宣伝するのに一役買い、この一作の出たあとは、スコットランドの地価がぐんと上がったという評判だった。スコットランド人はウォルター・スコットのことを神のようにあがめ、「湖上の美人」は、わが国の「忠臣蔵」のように、これを演じればいつでも必ず大入りになるそうだ。私はスコットランドの湖水地方を巡歴し、ついで、わが国の京都に似ていかにも閑静で幽玄風雅なエジンバラで有名なウォルター・スコットの銅像を見、そのあとで彼の傑作「湖上の美人」を見たので興味は一層強まったのである。
このほかにもイギリスで観た演劇は無数にあるが、もうこの辺で、ひとまずやめておくとしよう。
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