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四十三  外遊中の知人(上巻139頁)

 明治二十二(1889)年ごろは、洋行するということが人に金箔をつける時代だった。そのうえまだ議会が開設される間のことで、国の費用で洋行をする官吏も多く、工業がそろそろ勃興する機運にむかっていたので各種工場を視察するために海外に行く人が非常に多かった。だから海外に滞在しているあいだに祖国の人に出会い、その後もながく知人としてつきあうことになった人も少なくない。
 わたしが在英中に出会った人たちのことを話そう。

 明治二十一(1888)年の何月だったろうか、ロンドンのハイベリーパークのある下宿屋に、石黒忠悳のち子爵】氏が森林太郎【鴎外】氏とともにドイツから帰国するついでに来泊したことがあった。私は数日間このふたりをロンドン見物に案内し、石黒氏はとても喜んで、これはいつまでも恩に着るよ、と言われたものだ。また森氏がのちに日本にドイツ文学を紹介するようになる大家であるとも知らずに、私の当時のなまかじりの文学論をぶったりしたのは、われながら無鉄砲なことだった。その後、森氏に会うたびに当時のことを笑い話にしたものだ。
 また、この下宿では尾崎行雄氏とも同宿したのであるが、尾崎氏は明治二十一(1888)年末に、例の保安条例(注・自由民権運動の弾圧を目的とする法律。施行は1887年末だが、ここでは渡英が1888年末ということか?)で追放されたのを機会に渡英され、政治研究に専心するということで議会の傍聴などに出かけていた。
 ところで、明治二十年の紀元節(注・211日)に森(注・有礼)文部大臣が暗殺されたという電報での知らせがロンドンの新聞に発表されたとき、尾崎氏は私にむかい、最近は日本があまりに西洋化し過ぎて国粋(注・その国に固有のよいところ)を忘れる傾向があるので、犠牲者には気の毒だが、これは世のひとびとに警鐘を鳴らし目をさまさせる効果があるかもしれないと言われたこのような場合において、尾崎氏が持たれている見識知ったのだった。
 島田三郎氏ともしばらく同居した。政治家として外遊している人たちにとって、日本で名の知られているその国の有名政治家のだれそれに面会したということが手柄になる。ある朝島田氏が、今夕イギリスの大政治家名前は忘れたに招待を受け、同家の晩餐会に出席することになっている、と言って意気揚々と出かけた。ところが、その日、私が外出してチェアリング・クロスのあたりをオムニバス二階つきの乗合馬車に乗って通過中、むこうから来たオムニバスに島田氏が乗っていたので、お互い「やあ」と声をかけあったが、島田氏はいかにもきまり悪そうで、翌朝の朝飯のテーブルで会ってもその話をすることはなく、その後もそのまま無言のうちに葬り去ることになってしまったという奇談である。
 マンチェスター視察中には、仙石貢、末広重恭の両氏に出会った。そのとき仙石氏とは一日連れ立ち、そのころマンチェスターとリバプールを結ぶための運河を開削する工事中だったのを視察したことを覚えている。
 スコットランドのグラスゴーを訪問したときには、真野文二、田中館愛橘、須田利信の三氏が滞在中だったので、約一週間ほどのあいだに何度か会って同地の事情を聴くことができた。
 また明治二十二(1889)年春に私がハムステッド・ヒル(注・ハムステッド・ヒースのことか?原文「ハンプステッド・ヒル」)というところに下宿していたときには末広重恭氏と同居だった。氏は朝野新聞の主筆として名声があり、大石正巳、馬場辰猪と三人で当時の政治論壇の三人男の観を呈していた。またわが国の小説の黎明期に「雪中梅」、「花間鶯」という政治小説を創作し文壇を騒がしたこともあった。その末広氏が、当時五十何歳かだったのにロンドンに来て下宿屋に閉じこもり、その家の娘に英語を習っていたのもおかしかった。
 あるときテムズ川の上流で舟遊びをしようといってふたりで出かけたことがあった。場所は忘れてしまったが、キューガーデンという帝室付属公園のあるあたりで、河岸には立派な別荘がたちならび、年ごろの令嬢たちが短いボートを操りながら柳の蔭をいったりきたりする間を、おもしろいガチョウが泳いでいるという景色は絵画でさえも及ばないほどの美しさだった。このとき末広氏は即席の七言絶句を二首作ってわたしに見せてくれた。その一首は、

   綺窓粉壁幾多楼 光彩射金碧流 一笑女郎能水 雪如繊手盪蘭舟


というものだった。
 末広氏は話好きで、夕飯のあとにはストーブの前で夜遅くまでいろいろな話をしたものだが、その多くは詩文に関する話だった。あるときは成島柳北についてこんなことを言った。

 彼にはあまり学問はないが天才肌で、詩が非常に得意だった、でも時々失敗することもあり、彼の外遊中の詩である「過落機山(注・落機山=ロッキー山脈)」の中に、

   怪獣有聲人不語 鉄輪軋上落機山

という部分があるけれども、これは仙台の斎藤竹山の「過鳴門詩」の、

   風力満帆人不語 一竿落日過鳴門

のひょうせつで、しかも出来に雲泥の差がある、汽車が轟音をたてて走るのを、怪獣有聲などと描写するとは、まったくなっていないではないか、アハハ…と大笑いしていた。

 
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