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   四十二
名誉領事ボウズ(原文「ボース」)(上巻136頁)
  
 
私は二か月ばかりのロンドン滞在ののち、ロンドンで知り合いになった河上謹一氏の紹介で、リバプールの羊毛商で日本名誉領事でもあったジェームズ・ロード・ボウズ(注・James Lord  Bowes1834-1899氏からの招待を受けた。

 ボウズ氏は大の日本好きで、日本人といえばよろこんで優待する人だった。当時五十五、六歳で、美しい夫人とのあいだに一男三女があった。リバプールのプリンセス・ロードというところに広大な邸宅を構え、バックガーデンに私立の日本美術館を作り、日本の七宝や陶器に関する大部の著作を持つ人だった。
 ボウズ氏が日本好きになったきっかけは、氏が語るところによると次にようになる。

 ナポレオン三世時代に開催されたパリ万博(注・1867年)で日本がはじめて古い時代の器物を出品したとき、三代将軍が所持したという幸阿弥作の蒔絵書棚を購入したが、その意匠の優美さに、このような名器を製作する日本の文化というもの非常に高尚にちがいないと思い、この蒔絵の棚を通じて日本人に親愛の情を持ったのだそうだ。当時の日本は極東の小さな島で、中国の属国であるとか、どんな野蛮人が住んでいるやら、などと言われ、イギリス人でこれを気にかける人はほとんどなかったのに、ボウズ氏は大きな敬愛の情を持たれたのだそうだ。

 私はこの話をきき、精神のこもっている美術品というものが、いかに未知の外国人を感動させたかということに思いいたり、このときから美術に興味を持ったのである。

 リバプールに前後二回にわたり数か月滞在するあいだ、私はボウズ氏の日本美術論の執筆の手伝いなどをし、その間にだんだん日本美術に興味を覚えるようになっていった。私がのちに美術の鑑賞家となったその芽生えは、実にこのリバプール滞在中に起きたことなのだ。だからボウズ氏がその友人に対して、この人は日本美術における私の弟子なのですと冗談交じりに言われたことは、事実その通りなのである。

 

折鶴の紋(上巻137頁)

 私が現在、家紋に折鶴を用いているのは、イギリスリバプール滞在中に起きたあるできごとから来ている。もとの高橋の定紋は、竹の笠で、二十四孝の話から思いついたものなのか、五枚の笹の下に笠があるというかなり複雑な構図だった
 さて折鶴のことである。明治二十一(1888)年十一月の天長節に、リバプールの日本名誉領事のボウズ氏がプリンセス・ロードの自邸において、天長節を祝賀するための盛大な舞踏会を開き、リバプール市内の名の知れた紳士淑女が何百人とやってきた。私も、ちょうどボウズ氏の客として滞在中だったので、この天長節夜会では主人を助けておおいに働かねばならないと思い、いろいろ考えた末に、岐阜提灯を各部屋の天井から何十個もつるし、色紙を使って自分で折鶴を折り、この提灯の底に結びつけてみた。

 するとこれが来客の間で非常に好評で、ある貴婦人などはボウズ氏に頼み込んでこの折鶴を持ち帰られたそうで、翌日の各新聞でそのことが取り上げられた。またボウズ夫妻もとてもほめてくださったものだから、私はこのことを記念するために、このときから紋を折鶴に改めたのである。

 ボウズ氏は羊毛問屋で市内に商店を構えアメリカ人相手に手広く商売をしていた。その商売において、イギリス人がいかに正直で懇切丁寧であるか、また取引先の便利になるように考えたり、荷物の倉庫代などにいささかのぬかりもない用意周到な姿勢を見せており、わたしは非常に敬服したものだ。

 ボウズ氏はみずから、私をリバプール市内の商業機関に案内し、説明をしてくれた。株式取引所、商業会議所、船舶ドック会社などの組織についても、私の研究のために多大な便宜をはかってくださり、その親切を忘れることは許されない。そのようなことから、私はボウズ家に滞在した記念として、ながくこの折鶴を定紋にすることにしたのである。


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