四十一
福澤先生の勧告(上巻132頁)
私が明治二十(1887)年十月に渡米してまだ一年足らずのうちに、日本における私のスポンサーであった下村氏が生糸相場で失敗し、私に調査させていた生糸直輸出の実現がかなわなくなってしまった。そして、非常に気の毒なのだがこの手紙を読んだら帰国してほしい、という知らせがきた。
さて、この事情を下村氏が福澤先生に話したとみえ、この手紙と同時に先生からも親切きわまりない長文の手紙が届いた。下村氏は財政的に行き詰ってしまい君の滞米費用をまかなうことができなくなってしまったのだから、この辺で外遊を打ち切り帰国し、前のように時事新報の記者に戻らないか、自分の見る限り君は実業家になるよりも、すでに何年かのあいだに習熟している新聞記者として世に立つほうが労力少なく効果が大きいと思う、もしあと半年くらいアメリカ滞在を希望するなら時事新報から通信費として若干の資金を送ってもよい、という勧告をしてくださっていた。
私はもともと、時事新報の新聞記者になるという約束で福澤先生の補助で慶應義塾を卒業した。その後すぐに時事新報にはいり、足かけ六年の記者見習いをし、言ってみればようやくひとり立ちできる地点に立ったところだったのに、そこで福澤先生の保護のもとを飛び出してしまったので非常に心苦しく思っていた。
だから本当ならば、ここで福澤先生の勧告に従うのが順当であったのだが、ふたたび文章書きの仕事に戻ることがなによりも苦痛だったので、私は先生のお気持ちは非常にありがたかったが、結局この勧告を辞退することにした。そのときの返事の最後に、次の一首を書き添えた。
米国遊学中奉呈福澤先生
師恩猶未報涓埃 忽接親書暗涙催 誰識天涯連夜夢 音容髣髴眼前来
(注・涓=少し)
さて、下村氏の送金が絶え福澤先生の援助も断ったからには、なんとかしてこれからの海外滞在費をこしらえなければならない。いろいろ考えぬいた末に、当時全権公使としてイタリアに駐在中だった旧水戸藩主の徳川篤敬(注・あつよし)侯爵に手紙を送り援助を請うてみた。すると侯爵はすぐに快諾してくださったので私は喜びで天にも昇るような気持ちだった。
こうなったうえは、日本とは非常に国情が違うアメリカに滞在するよりも一般的な商業視察を目的にしてヨーロッパに行き、イギリスを中心とした諸国を歴訪することにしようと決心した。
そして同じ年の四月末に、ニューヨークから七千トンのアンブリヤ号に乗りイギリスのリバプールに入港したのは、ロンドンシーズン(注・イギリス社交界のメンバーが夏のあいだ地方の本宅からロンドンのタウンハウスに集まる時期)の始まる五月一日のことだった。
倫敦(注・ロンドン)シーズン(上巻134頁)
私がアメリカからリバプールを経てロンドンに到着したのは五月初旬のことだった。いたるところにある公園ではチューリップ、バタカップ、オールフラワーなどが咲き誇り、ロンドンのもっとも行楽に適した時期だった。
ここのリージェント・パークの近所に自宅のあるサーン(注・原文ではセルン。未詳)という学者が、アイルランド人の著名な文学者の某女史の娘と結婚してテムズ川上流にある別荘に住んでおり、そのころロンドンに遊学中だった金港堂の原亮三郎氏の長男の亮一郎が、この人について英語の勉強していたのを幸いに、私も彼といっしょにその別荘にしばらく滞在させてもらうことになった。
テムズ川の上流は両岸にお金持ちの別荘が立ち並び、柳の下にはハウスボートという、日本の屋形船を何倍か大きくして内部に寝室や料理場までも備えてある美しい遊覧船がつながれている。別荘に住む家族は、この船で川を上下し、時々場所を変えて気分転換するという趣向である。別荘とこの遊覧船との往復には、一人乗りのカヌー(原文「カヌン」)という小さなボートの船尾に座り二本のオールで操縦する。
私も毎日亮一郎君と、このカヌーでサーン家のハウスボートへ行ったりきたりしたが、河岸の平原は例の草花の咲き乱れるあいだに牛や羊の群れや遠くの教会の塔などが見渡せ、その風景はじつに絵画的なものだった。
私はイギリスに到着そうそう、この光景をおもしろく文章にして福澤先生に送ったところ、先生はさっそくこれを時事新報に掲載し、これからの外国滞在中、時事新報記者として通信してほしい、といって若干の通信料をくださった。私はかさねがさねの恩恵に感謝し、それから二年間不自由なくイギリスに滞在することができたのである。これはほんとうに願ってもないしあわせだった。
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