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 四十
米国人の学問(上巻129頁)

 私ポキプシーのイーストマン商業学校に在学中、アメリカ人の学問に対する考え方が、われわれとはかなり違っているということを知った。
 学生たちは下宿屋に滞在するという方法のほかに、イーストマン商業学校がホプキシーの土地の繁栄に寄与しているため普通のお金持ちの家庭で縁故のある学生を紹介で二、三人下宿させるということが広く行われており、そのような家庭に下宿する場合も多かった。福澤一太郎氏の下宿していたオートンという未亡人のところには年頃の娘さんがふたりいて非常に上品な家庭だった。私の下宿していたところもそれなりの家庭で、もうひとりアメリカ人の学生がいた。
 この学生があるとき私にアメリカ各地の商業学校の事情について話してくれたところによると、ある学校では入学金に三十ドルから五十ドル取られる。またある学校では百ドル取られたうえに、月謝もちょっとした高額なのだそうだ。しかし、今入学金や月謝の安い学校を卒業してニューヨークなどの商店に住み込もうとすると、初任給がこれこれとなり、ほかの高等学校を卒業すれば、その入学から卒業までの学費が、しめてこれこれくらいの高額になるかわり、卒業後の収入がこれこれとなる。つまり、学費を多く払って卒業後の収入が多くなるか、学費は安いかわりに卒業後の収入も少ないかを比較して、どちらが得になるかについては学生の入学時のふところぐあいと相談し、また卒業後の収入の差などを検討して決めるべき問題であるという。
 この人の口ぶりから、日本で学問をするというのは自分自身の義務であって、はじめから利益計算は度外視しているのに対し、アメリカ人は学問を一種の商品のように考えて、価値の高いものや値段の安いものを選んでいることがわかった。これはまるで商品売買と同じで、使った金にたいし、どれだけの収入があるかを計算するのであり、つまり学問も買い物なのである。さすがに拝金宗の国だけあって、金銭に対する打算は日本人とは根本から違っていると思った。
 それからというもの、他の学生たちの考えにも注意していると、かれらはこれをふつうのことだと疑いもなく考えていることがわかり、学校に入学する者は最初から将来の計算をしていることがわかった。
 私のような日本流が正しいのか、それともアメリカ流が道理にかなっているのか。すなおに考えればアメリカ人の考えがむしろ妥当だと思ったのであるが、これは、私がアメリカでしばらく学校生活をしているときに得た感想なのである。


ワナメーカー百貨店(上巻131頁)

 私はポキプシー商業学校を卒業後、学校の先生でハスキンという親切な教授が各地の商業機関宛ての紹介状を書いてくれたので、これに非常に助けられた。
 明治二十一(1888)年三月にポキプシーからニューヨークに移り、ハスキンの紹介により株式取引所の調査をした。また生糸貿易会社の新井領一郎氏らの紹介を得て、生糸織物のいちばん盛んなパターソン地方を視察した。

 さらにフィラデルフィアに赴き、そのころアメリカ一とされていたワナメーカー百貨店を見学した。百貨店は当時アメリカでもまだ珍しい小売り業態であったが、これはそのうち必ず日本にもやってくるにちがいないと思ったので、私は四、五日にわたり調査を続けた。

 このころはまだアメリカでチェーン・ストアの仕組みが発達していなかったので、百貨店が地方からの注文を受けて荷物を発送するということがかなり多く、当時のワナメーカーの支配人の話によると、同店が一日に地方に発送する貨物は約三万六千個にのぼるということだった。
 今日ではあまり珍しくないことだが、店員が客に売った勘定書と現金を離れたところにある帳場に送り、その受け取りやつり銭などを、例の針金づたいにやりとりする方法を、当時非常にめずらしく思った。また、特に女性の店員が大活躍しているのを見て、これはわれわれがまだ見たことのない女性の職業で、いつかきっと日本にも輸入されるされるにちがいないと思った。私が明治二十六(1893)年に三井銀行大阪支店長時代にはじめて女性を銀行の金銭出納係に採用したのも、また三井呉服店改革して百貨店のはしりとなったのもみな、このワナメーカー視察があったおかげで、たまさか実現したものなのである。


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