【箒のあと(全) 目次ページへ】【現代文になおすときの方針

 三十八
村と十郎(上巻122頁)

 
上州前橋の下村善右衛門氏は私と同年配で、明治十七、八(18845)年ごろ東京に遊学していた。正式には慶應義塾に入学しなかったものの、時々福澤先生のところに出入りして学校外の弟子としてその教えを受ける機会があった。当時は万太郎といい、厳父の善右衛門氏は前橋の生糸製造業者だった。父はそのころ相場でかなりの利益をあげ四十万円ともいう、当時の四十万円は相当の大金だったので、万太郎氏も大得意で市川十郎をひいきにし、十郎のほうもまた、彼が金持ちの若旦那らしい無邪気なかわいげがあることにほれ込み、下村さんのほうも金銭関係を離れてほとんど親類同様につきあっていたから、私も下村氏に連れられて築地の十郎の家によく遊びにいった。
 あるとき十郎が十八番の「暫」をやったとき、下村氏は十郎に顔の隈取りをしてもらい、彼の衣装を着こんで写真を撮った。撮ったはいいがあまりに着物が重たいので、非力の下村氏はよろよろして歩くこともできず一同大笑いになったのだった。
 このころ私は末松謙澄氏と話し合って盛んに演劇改良論を唱えていたので、十郎に面会する機会が多く、同時に先代守田勘彌氏とも懇意になった。

 あるときトルコの軍艦が紀伊半島沖で沈没したことがあり、それを守田勘彌が中幕物(注・第一、第二狂言のあいだに出される一幕の狂言)に仕立てたいということでに脚色を依頼してきたので、私は以前に福澤先生からきいていた、尺振八が渡米の際に暴風雨に遭い汽船から逃げ出そうとしたという逸話(注・23を参照のこと)をそのなかに入れ込んだ脚本を作り、おかしみを出したりしたのであるが、政府が外交上の問題があるということでこの上演を許可してくれず、そのまま中止になってしまったのは残念だった。
 私と市川十郎の交際はこのときから始まり、後年かなり親密に行き来することになったので、そのことはまた、おいおい記すことにしよう。


売文生活(上巻124頁)

 私は母に似て、容貌も性格もいちばん多く母からの遺伝を受けていたが、文芸好きという点でもその影響を受け少年時代から読書や作文にとことんの興味を持っていたので、新聞記者という職業は私の天職で、人から後ろ指さされるようなこと(原文「不倫」)ではないと信じていた。
 さて、私の時事新報在職もすでに足かけ六年、新聞の論説欄の執筆も福澤先生に指導され、今では先生の口述筆記でも自筆の論説でも、ほとんど先生の目を通さずに時事新報の社説欄に掲載されるようになっていて、俸給もかなり多額になっていた。
 何の不満もないというべきところだったが、私はうまれつき、よくいえば趣味、悪くいえば道楽が高じがちで、衣食住に関して贅沢をすることが多かった。そのため、新聞記者として文章書き(原文「売文生活」)を続けたのでは、とてもこの性分を満足させることができないことに気づき出した。また同時に、新聞記者として短時間にいそいで文章を書くということ快感を感じるというよりむしろ苦痛を覚えることのほうが多く、ときとして、明日掲載のための論説の内容を考えるために夜遅くまで頭を使わなくてはならないこともあり、健康にさわることも出てきた。

 文章を書くということは、衣食にこと欠かず、「五日一石、十日一水」(注・画家が五日かけてひとつの石を、十日かけてひとつの川を描くように、じっくりていねいに、の意味)というように、気持ち安らかにやってこそ趣味を感じるというもので、仕事に束縛され、いやいやながら筆をとるのはむしろ苦痛だと感じ始めていた。そこで私は、一時期実業界に寄り道して生活の安定を得てから、また文芸生活に戻って気楽に文筆の趣味を楽しまなくてはならないと、ここに新聞記者をやめる決心を固めるにいたったのである。
 私が福澤先生の勧告に従わずに、まず生活の安定に必要な資を蓄えるために新聞記者を早くにやめ、いっとき実業界に寄り道したということは、言うまでもなく失策だった。二兎を得ようとしている者さえ一兎を得ないのが世のならいなのに、には往々にして数兎を得ようとする悪い癖がある自己満足をすることはあっても、後世に足跡を残すような何ごともなしえなかったのはこのためだったのである。私がもしも先師の訓告に従って一心に文筆業者(原文「操͡觚業者」)として働き続けたなら、東京の文壇で、貧弱ながらなにがしかの者になりえたであろうに、実際にはなにをやってもそこそこ器用なせいで趣味は十個以上にわたり、実業界にはいってからも、銀行、紡績、鉱山、製紙、百貨店の各方面に身を置き、使う側からは重宝がられたが、さてなにが私の仕事なのかと問われると、これだ、と答えられるものがなにもない。結局人生の成功は自分の持つ力を一点に集中することで得られるもので、わたしのような八百屋主義では大成することはないのである。ここにこれを懺悔し、これからの人たちの参考にしてもらえればと思う。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ